2020/6/27

井上功大

ここ最近の僕の人生で一番の不思議が彼とのコラボレーションです。彼は今はプロフェッショナルカメラマンとして活動しており、僕の手掛けるサイトの写真や、僕のプロフィール写真を依頼したりなど、今では必要不可欠となった僕の人生における唯一のカメラマンです(中目黒の萱野さん覚えていますか)。

彼は僕がロサンゼルスに住んでいた頃の高校の同級生で、同じ日本生まれの日本人として、外国の地で共に闘った盟友(聞こえは偉そう)であります笑

彼は生後間もなく親の仕事の関係でアメリカに移住したらしく、僕よりも断然アメリカ歴が長いのですが(僕は7年彼は23年)、どうしても日本語で僕と会話したいらしく、高校時代も今も、ほぼほぼ彼の英会話を聞いたことがありません。

まあそんなことはどうでも良いのですが、功大と将来一緒に仕事をすることとなるとは、お互いこれっぽっちも想定していなかったことでしょう。

彼のような変人と、この最強になりつつある翔樹のこれからの人生でコラボしていける事実は、改めて凄い幸運なことだなとただただ思うわけです。

彼と居て感じたことは「目に見えなく、かつ複雑で重要な、価値と意味を創造し、世の中に我々の爪痕を残していきたいという願望なのか価値観なのか、そのセロハンほど薄くかつ重く、計り知れない熱を帯びた思い」が我々の共通点であり、それ以外は全くもって真逆の人間であるということ。

思考回路も異なっているし、窓(視界)から見える景色の着眼点も全く別。ただ、上記の思いが共有しているため、ところどころで意味不明な共通点が存在しているという、当事者である自分も異色にしか感じられない二人なのである。

彼に撮ってもらった2019年翔樹の写真集はこちら

んでヤツのサイトは沖縄のカメラマン

2020/6/17

人生のテーマ

なつかしいなぁ〜ブログを毎日書いてた日々。3日連続でブログ書くの何年ぶりだろうってくらい思っていますが、2014〜2015年くらいかな、毎日ブログを書いていた時期があったんです。でも当時ってただ日記を書くだけで、自分の中での方向性というか、人生のテーマがそこまで決まっていなかった。もちろん、毎日書いていたので、書くそのものの行為は上達しましたし、自分が書くことが好きであるということも知ることができました。要はこのブログ立ち上げから2016年半ば頃まで熱心に何の目的もなく日々思ったこと感じたことを綴ってきたのです。

そして2016年半ば、ジェイとの出会いを境に、一旦このブログから距離を置くことになります。ジェイと出会ったのは2016年の7月ですから、もうすぐで4年ですね。4年もの間、言い方は変ですが、自分の表現?というか自分の内面の整理?要するにアウトプットをしない訳ですから、インプットもままならない訳です。どんな形であれです。

しかし決して自分の探求をないがしろにしていたわけではありません。その時その時に自分の正しいと思ったことを実施し、経験から学ぶスタイルは変わらず貫いていました。そして地獄も見ました。一度地獄に足を突っ込むと、この他愛のない日常がヘブンでしかなく感じるとか、色々と人生という体験への見方も変わりました。

3日目ということで執筆のエンジンもかかってきました。多分この家に引っ越してきてからここまで会社のブログ以外で書いたことは無いレベルかもしれません。ジャーナル以外の記事創作のアイディアを練り始めるとします。色々な人から影響を受け、会ったこともない人に恋をし、人生のテーマが決まってきました。

2020/6/15

その足していく1(イチ)

何故人は(というか俺は(爆))近道をしたくなるのでしょう。近道をしようとして10年間、結局どこにも進まずwww やっと目の前のその一歩が全てであることに気づき、進めるような気がしてきました。

しかしそれに気づけたのは幸いですが、逆に言えばもう夢を見ることは出来なくなってしまったため、かなりキチィ茨の海(shoutout to Chihiro Onitsuka)を歩み始める羽目となりました。要は昔は今より将来のほうが大切だったんです。俺は将来こうなってやる。俺は将来BIGになってやる。俺は絶対…などなど、多数のデイドリームをビリーブするデイ・ドリーム・ビリーバーだったのですが、その叶わないかつ見るのが楽しい夢をもう見ることが出来なくなってしまったのです。これは大問題、というか、致命的です。この「今」という誰もが逃れられない空間(生きている限り続く)と真っ向勝負しなければならなくなってしまったのです。

となると真っ先に浮上する試練が、自分の今の状態を認めざるを得ないということです。どういう事かと言うと、自分が何を今まで達成していようと、何を達成していなかろうと、おそかれはやかれ、今の自分は今の自分なので、そこに少しでもいいから、今生授かった人間という体験をより良くするための成長を、少しでもいいから日々足していかなければならないということです。

昔はその足していく1(イチ)が小さく見えすぎて、その1の意味が理解できなすぎて、足すそのものの行為ができない。でも最近、その1しか足せないのがやっとわかって、その1の大切さがやっとわかって、今まで見ないふりしてた自分にやっと足していけるようになったんです。

でももちろん、無意識に足してきた1はたくさんあるのはわかっています(それ無くして今の僕はいないですから)。でもそれを意識的にして、さらに意識的にその一歩を踏み込んで行かないと、自分の残したい足跡が残せるようにならないし、更には自分が本当に見たい景色が見れないんだなってわかったんです。