エゴには完璧なタイミングが存在しない。エゴはいつも今じゃない。

今じゃないんだよね。

いやちょっと待って。

明日やる。

今忙しいんだよね。

急に言われても。

エゴは一体なんなのかという話にはなってくるのですが、要は今から逃げたくなる感覚の源となる、あなたの中に住んでいるお猿さんのことです。

今と向き合うより、楽で受動的なことを選ぶのがエゴです。

さらにエゴは、今じゃないと言っておきながら、明日明後日来週来月来年になっても行動に移さないということです。

なぜなのでしょうか。

それは、エゴは時間という概念で生きているからです。

今じゃないと言えるのは、時間という概念なしでは言えないことなのです。

なぜならば、時間という概念がなかったら、明日も来年も何も無いわけです。

やるかやらないかだけなので。

ですので、明日やると宣言してもいいですが、結局のところ、行動に移せる時は今しか無いんです。

どうします?

やりますか?

やめますか?

自分の喜びの共有は自分だけで十分

子供の頃は新しいことが出来るようになる度、母親や父親に「ねぇ見て!」と言って、自分の感動の共感を求めてたことかと思います。

その感動の共感は素晴らしいことです。

なんら問題はありません。

子供の時はです。

大人になってからは、この自分の感動、または自分の取り組みを他人に共有することが、承認欲求になってしまうことがあるため、要注意ということです。

ただただ共有することになんら問題はありませんが、凄いと思われたいとか、良いフィードバックを期待するなどをしてしまうと、ただの共有ではなく、承認欲求となってしまうのです。

これをしている限りは、そのあなたの取り組みは、自分が本当にしたいことではなく(または自分が自分のためにしていることではなく)、自分を誰かに認めてもらいたいがために行っている手段となっていることでしょう。

なのでどれだけ自分が自分で終わらせることができるか。

どれだけ自分の納得だけに留められるか。

それがあなたの取り組みの質を決めることとなるでしょう。

大切なのは何をするかではない。どれだけ夢中になれるかだ。

生きていると、自分を幸せにしてくれるものは何か、自分を満足させてくれるのは何か、を求めるのが人間の性です。

自分の天職は何なのか。

自分の好きなことは何なのか。

自分のしたいこと、やりたいことは何なのか。

つまりは、「何」という内容に意識が向きがちです。

しかし、これは人間の仕組みなのですが、その「何」という内容が我々人間を満足させることはないのです。

私はこれは嫌。

だから違う好きなことをする。

これはこれで素晴らしい選択です。

しかしその好きなことが、生きる上での「自分の満足」に繋がるとは別であると理解する必要があります。

さらにその「自分の満足」は、手に入れるものではなく、体験するものであるということです。

ではどのようにその「自分の満足」を体験することができるのか。

簡単です。

夢中になればいいのです。

夢中になっている時、あなたは幸せを求めていません。

夢中になっている時、あなたから時間という概念がなくなっています。

それです。

だから子供は何でもすぐ状態するし、何にも執着せずに今を楽しめているのです。

夢中になっちゃえ!

AYUのお話 PART.1

浜崎あゆみの音楽に育てられたと言っても過言ではない、僕の10代の全ての景色にAYUがいるんです。もし次女の子を授かるのであれば、名前はあゆみで決まり!

フォントパックまだM1にインストールしてないからタイトルのフォントデフォですサーセン

次はズームインと効果音入れた編集やってみます。

? March 8th, 2021

感謝は自分の中でしか感じられないもの。自分が傲慢になればなるほど、この感謝の感覚は自分の中から消え去っていく。

傲慢、つまりは「自分が他人より優っていると思い込み、あたかも自分は特別に扱われるべき」と思ってしまう事は、自我を持つ我々人間がやってしまいがちなエラーです。

ここでの考察は、この傲慢さという態度は、人が人を判断する態度に思いがちであるということです。

あの人の態度は傲慢だ。

無論、それはその人、とある人のことを傲慢と思ったことなので良いのですが、実は一番困る傲慢さは実はこれではない。

他人から傲慢だと思われるくらいの傲慢など、かわいいものなのです。

では一体その一番困る傲慢さとは何か。

自分自身がこの人生に対して傲慢になることだということです。

自分の思い通りにならない、いかないことを受け入れることができず、さらには自分の取り組みを棚に上げ、自分は特別であると勘違いをしてしまう。

この傲慢さを持ち続けるとどうなるかというと、他人に感謝を要求するようになるのです。

本当に困ったものです。

そして他人にすることは自分にしていることと同義であることは基本中の基本ですから、自分から感謝がなくなっている証。

感謝という名のこの森羅万象を受け入れる事ができなくなり、宇宙の断片としてこの無意味な世界を彷徨うただのエゴとなってしまうのです。

これは強さに見える、強さであると錯覚してしまう最大の弱さです。

さらに自分は宇宙に生かされているのではなく、自分で生きているという更に傲慢なサイクルに陥ってしまう。

感謝は自分の中でしか感じられないもの。

自分が傲慢になればなるほど、この感謝の感覚は自分の中から消え去っていくのです。

自分が傲慢になっていないか。

「自分」で人生を操作していると勘違いしていないか。

常に自問して生きてください。

他人が居すぎる。頭の中で他人が居すぎるとやばいことになる。

アイツとはもういいや。

アイツは最低最悪。

アイツには負けたくない。

その「アイツ」、その正体は実は他人ではないのです。

他人はどこにもいません。

ではその「アイツ」の正体は一体何か。

その「アイツ」は、あなたのエゴ(恐れや欲望)です。

あなたの恐れや欲望が、あなたの中で、他人の形をしてホログラムとして現れているのです。

「アイツ」の形をしているので、それはもう「アイツ」にしか見えないのですが、それはただの幻想。

「アイツ」に見えているだけで、残念ながらその「アイツ」は自分の意識状態を忠実に再現してくれているのです。

マイケル・ジャクソンのMan In The Mirror(マン・イン・ザ・ミラー)とは良くも言ったもので、内面に映るものは全てあなたが映し出されたもの。

ですので、自分の中に他人が居すぎる場合は、もうそれは警告です!

自分の恐れや欲望を人のせいにするという、大変卑劣かつ情けないことをしてしまっているのです。

自分の感覚は自分で責任を取る。

それができればあなたは真の成功者です。

まずは自分に優しくなれ。というか自分以外に優しくできない。

なぜにそんなに自分に厳しくなる必要があるのでしょうか。

お前はダメ。

お前はまだまだだ。

私はろくでもない。

私は価値のない人間だ。

こんな自虐的なことを思って一体何になるというのでしょうか。

他人(家族、同僚、友達など誰でも)に何かを言われた、何かをされたとしてもです。

それを自虐の材料にするかはあなた次第です。

ではストイックな取り組みはどうなるのでしょうか?

トレーニングなどで自分に厳しくするものです。

これはあくまでも自分主体で、自分の成長に繋がる厳しさ(情熱)であると言えますが、自虐的な思考の成果は自己否定にしかなりません。

誰かより劣っていてもいいんです。

それよりも何よりも、劣るも優るもないのです。

ただ自分としての人生体験が続くだけです。

自分に優しく、そしてあなたが唯一優しく出来る「あなた」に優しく生きてください。

あなたはあなたのありのままで美しく、素晴らしいのですから。

あゆのお話はまた今度。

久々にブログっつーか日記を書いてみましょうか。いや、病み上がりですw 生ガキに当たりまして、月曜火曜とK.O. 水も頭痛が終始して、木曜の朝起きても頭痛。確定申告の予約の日だったので休みますとも言えず、無理矢理に朝8時半過ぎに車にエンジンをかけるわけです。ぶっちゃけ申告書作成中も頭痛が収まっていなかった気がしますが、国税が終わり県税に移った頃には消えてなくなっていました。

以上が物理的な日記でございます。物理的と言うか、物質的な状況的なジャーナルね。2月の最終週、つまりはバスティル株式会社の確定申告提出期限の週(12月決算なので)は一番バタバタする週なのにも関わらず食中毒になりマジで青天の霹靂でやめて欲しかったっていうのが一旦の流れ!w

内面と言うか他のエネルギー的な観点からの日記の方が百倍面白いかと思うのですが、こちらは良好良好!最近はかなりの統合を感じていまして、ほぼほぼこの世の仕組みがわかりましたレベルです。この世の仕組みっていうか、どう内面から具現に繋げていくかという方法が。

てな感じでやっぱり日記とかめんどくなってきたのでお開きにしまーす!

とりあえず今日の曲はこれで。

あっ、書きたいことあった。あゆですよ。あゆ!FUCKING AYUMI HAMASAKI!

あゆのお話はまた今度。

Google検索は思考増幅装置(アンプリファイアー)

実用的な調べ物、実用的なインターネット検索はその名の通り実用的なので問題ありません。

何かに役立てるために何かを調べる。

何か困ったことがあって、それを解決するために調べる。

インターネット検索のあるべき形です。

しかしです。

恐れから派生するインターネット検索は、その恐れを増幅(Amplify アンプリファイ)させるという特徴があります。

例えば、自分の体験談から引用させていただくと、パニック障害という病を2年半前に患ったことがあります。

しかしパニック障害は色々と変な症状が現れるため、最初はパニック障害ではなく、自分は別の病気にかかってしまったと思い込んでいました。

どうにかして病名、原因を突き止めようと、その症状を調べまくる訳ですが、症状を調べれば調べるほど恐れが増幅してしまうのです。

もしかすると難病なのではないか。

もしかするとこれかもしれない。

もしかするとヤバいかもしれない。

そのような思考がさらに症状を悪化させることとなるのです。

これは病気などの、症状を伴うものだけに留まることではありません。

全ての欲望、全ての恐れは、インターネット検索を通じて増幅することでしょう。

お気をつけください。

負けを素直に認めることが出来ない限り、成長することはできない。

勝ち負け、特にプライドのかかった勝負であればあるほど、負けた時のダメージ、悔しさは大きいのは間違いありません。

ただこの負けた時に、悔しいや腑に落ちない、納得いかないで終わってしまうのは勿体なさすぎます。

勝負での負けは勝負での負けですが、それだけです。

本当に負けた訳ではありません。

勝負での負けには、必ずあなたが改善・成長できる要素が含まれています。

しかしその改善・成長を自分のものとするためには、まず悔しさを振り払う必要があります。

素直に負けを認めて、自分の実力不足であると認めることが、あなたの成長のために必要不可欠なのです。

負けを認めるということは実は難しい。

人間は共存していく動物でありながらも、競合していく動物でもあるため、誰も負けたくはないからです。

ここでさらなる別の角度からの考察が出てきます。

負けようと勝とうと、あなたの実力はその時のあなたの実力を的確に描写するということです。

勝つ時も負ける時も、あなたの実力はあなたの実力。

そのザコい未熟な実力で勝ったところでどこの何が嬉しいのでしょうか。

自分を高めていけばそれでいいのです。