安定と一定の違い。安定した人生は内面から実現する

巷で定義されている安定は一定

安定した生活を送りたい。安定したお給料を貰って、なんの心配もない人生を送りたい。これが大半の方が思うことでしょうか。

その「安定」という定義は合っているように聞こえて、実は的外れです。それは安定ではなく、一定です。変化のない生活、変化のないお給料を貰って、変化に晒されることない人生を送りたい。それが巷で言われている「安定した生活」です。

安定というコンセプトは、巷では、何も心配しなくてよいと言いますか、決まった給料を毎月もらい、何かに追われることもなく、生きていけるようなことと定義されているような気がします。

安定と一定の違い

しかしながら、その定義は僕は間違っていると思うというか、皆さん勘違いしちゃっているのではないかと思っています。なぜかと言うと、安定とはまずバランスと言う意味ですから、心配がなくなるという意味ではありません。さらにバランスとは、対極しているもの(プラスとマイナス)の両方があって初めて成り立つもので、一定の何かが保たれるという意味ではありません。

巷で言われている安定は、「不変」、すなわち、「一定の状態を保つ」という風に定義されてしまっています。バランスではなく、コンスタントという意味です。

安定はバランス。バランスを取る。 一定はコンスタント。コンスタントな収入を得る。

安定を一定と勘違いしてしまうと、本当の安定、心の安定は訪れません。

本当の意味での安定とは?

安定を和英辞典で引いてみてください。Balanceと書いてあるはずです。バランスです。バランスを取ると言います。平均台です。自らバランスを取らないと落ちます。

私たちが求めるものは、一定の何かを保つことではなく、本当の意味でのバランスです。ハーモニー、それはこの物質社会の法則である、プラスとマイナスのバランスです。どちらも、どちらかなくして存在することは出来ません。

男女、音と静寂、物と空間、火と水、地と天、どちらも、どちらかなくして成り立つことは出来ないのです。ということは、本当のバランスというものは、こう定義できます。

プラスとマイナス、両方とうまくお付き合いしていくということ

物質世界には、このプラスマイナスが付き物です。しかし人間は、何故かプラスだけを欲しがり、マイナスを怖がる。プラスを良い者扱いし、マイナスを悪い者扱いしする。極端な話、どちらにも良い悪いはないのです。

今後意識してもらいたい事

安定は自分で作り上げるもの。一定の給料は会社がくれるもの。前者は自分。後者は誰かがしてくれることです。

誰かがしてくれることに自分の心のバランスを委ねていないか。あとは、一定を崩したくないがために、自分の行動を制限していないか。一定の呪縛からの脱出、つまりは不確実な旅路に出ることを恐れていないか。ぜひ自分を観察し、意識してみてください。

最後に

大企業に務めていて、安定した給料をもらっていても、会社自体の売上や利益は、安定することはありません。大きなお金の山から小分けして給料を貰っているので一定しているように感じますが、それはプールから桶一杯の水を貰うようなものです。

一定、そして一定が自分の安定を実現してくれるであろうという古い価値観を捨てて、是非不確実でエキサイティングな人生を送っていただきたいと思います。

不確実さを恐れず、自分の人生は自分で作り上げる。この姿勢を自分の人生に取り入れることが出来るかどうかが、自分のポテンシャルを活用できるかどうかにかかっているのです。

SO GO AND LIVE YOUR F*CKING LIFE!!!

欲望を無くせば楽になる。恐れと欲望は表裏一体。

Want & Fear are one and the same.

この欲望は、何か物が欲しいというような、物質的な欲望ではありません。

人生は「このようにあって欲しい」という、状況的な欲望です。

例えば、少し極端な話ですが、子供が外へ遊びに出かけたとします。

「勝手にやって勝手に帰ってけーや」

と思っていれば、別に心配も何もありません。

心配イコール恐れですね。

逆に「変な人とか、走ってる車とか、転んだり怪我しないように気をつけて遊びなさい!」

と思っていれば、常に「あの子大丈夫かしら」と心配、恐れることになります。

ここで注目してもらいたいのが、心配や恐れには、実は「こうあって欲しい」という欲望が隠されているということです。

正しくは「こうあって欲しくて、こうはなって欲しくない」という、ふたつの側面があるということ。

あとは好きな人にアプローチする時とかね。

“嫌われたくない” から怖い。

“好かれたい” から怖い。

表裏一体なのです。

ではどうすればいいか。

臨機応変に対応すれば良いんです。

これが起こったらこうする。

それまでは最善を尽くす。

それしか出来ませんから。

良くも悪くも。

社長の給料が高く、雇われの給料が低い理由

責任やらリーダーシップやら色々とあるかと思いますが、結局の所は「従業員に給料を支払う」という「仕事」をしているからです。

正しくは「を」ではなく「も」ですね。

従業員に給料を支払うという仕事も、しているからです。

社長お前はただ座ってるだけでふざけんな、とまではいかないものの、給与はどのように決まるのかを考えた時期がありました。

それでたどり着いた答えがこれ、という感じです。

給与を貰っている側はあまりわからないかもしれませんが、給与を支払うということは結構大変なことなのです。

私ももちろん体験していることで、実体験に基づく考察故の結論というところでしょうか。

給料は一定の額を継続的に支払わないといけませんが、会社の売上は一定ではありません。

不確実です。

そんな不確実な中でさえも、会社の代表者、責任者として「従業員に給料を支払う」という仕事をしている訳ですから、社長の給料を高いに決まっています。

認識できるもの全ては自分ではない

つまりは自分以外のものを自分と同一化してはならないということです。

自分の世間的な立ち位置、要するに出会い系のプロフィールに書くようなこと(容姿、職業、年収、趣味)はすべて、喩えてみるならば、あなたの着ている洋服なのです。

あなたではないんです。(ただ、洋服なので、あなたがカスタマイズできる物ではありますが)

あなたはその洋服を着ようと着まいとあなたなのです。

「認識できるもの全て自分ではない」と書いたのは、あなたの人生はあなたと共にあるこの人生体験のことであるからです。

出会い系プロフィールの例とは別に、今度はクリニックでとある病の診断を下されたとします。

過去に著者はパニック障害の経験があるので、パニック障害という診断を下されたとします。

「あなたはパニック障害です」

と。

通常であれば、そのような診断を下されたのであれば、その日から「あー、俺はパニック障害になっちまったんだ。おれはパニック障害持ち。精神病患者だ。」という風になりがちですが、ここがポイントです。

アイデア(思想)を自分と同一化する必要はゼロなのです。

これが認識できるもの全てという意味です。

「後付けの要素を自分にするな。お前は生まれたときからお前だし、死ぬまでずっとお前だから、自分を思想化するな。自分は常に自分にあり。」

ということですね。

Feb 26th, 2019

ビジネスはありがとうをどんだけ言われるかゲーム

実にシンプルであります。

これはお金配りオジサン(ツイッターID: yousuck2020さん)がおっしゃっていた事をインプットしたものです。

ビジネスと聞くと「どれだけお金を稼げるか」ということにに繋げてしまいがちですが、お客さんからのありがとうが増えれば増えるほど、ビジネスは拡大していっているということになります。

今これを書いている私はWeb制作というWebサイトを作るお仕事でお給料をいただいておりますが、このビジネスの定義は実は創業当初に知っておきたかったなぁと思う事の一つです。

誰も教えてくれませんでした。

ただ稼げればいいと思っていました。

しかし人間ただ稼げればいいという浅はかな生き方をしていると、精神的、人間的に、様々な面で歪んできます。

そしてその浅はかな生き方を訂正するような出来事が試練として現れたりするのです。

お金は体験を買ってくれる素晴らしいツールで、お金が実現してくれる自由とダイバーシティを皆が求めるのは理解できます。

しかしそれは後からついてくるもので、ビジネスで成功するためにはまずビジネスの本質を心得なくては始まりません。

筋トレやフィットネスへの取り組みに似ています。

もちろんシェイプアップしたいしダイエットしたいです。

見た目を変えたいのです。

でもそれだけが目当てだと続かないし、苦しくなります。

人から言われるありがとうを増やすこと。

是非やってみてください。

アウトプットするエネルギーは必ず返ってきます。

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全てを認めてあげないといけない。全てとは全てよ。

あなたがあなたにすべきこと、それはあなたを認めてあげることです。

あなたのすべてを認めてあげることです。

全てとは全てです。

容姿、才能、性別、性格、仕事、夢

まだまだあります。

あなたの癖、コンプレックス、趣味趣向

これで大分認めることが出来ましたが、最後に一番認めるのが難しい要素が2つ残っています。

そのふたつは、あなたの不完全さ、もう一つが、あなたが今居るその場所です。

あなたは完全になることはありません。

この物質世界に生きる限り、制限が付き物です。

生きる時間も限られているし、何を達成してもそのまた上を行きたくなるのが人間です。

魂レベルでは常に完全であり、物質レベルでは常に不完全です。

その不完全さを認めてあげないと、人生に常に抵抗することとなってしまいます。

そしてもうひとつが「あなたが今居るその場所」でした。

「私はここに居たくない」

「私は違う場所にいたい」

もしくは

「私は今の人生が嫌だ」

「私はいつか訪れる幸せを待っている」

と思うことは、「あなたが今居るその場所」を認めることが出来ていないということになります。

これを認められたら、乾杯です。

あなたが今居るその素晴らしい生命という体験に、乾杯しましょう。

参道

今の実力に感謝できなければ先には進めない

絵描きになりたいとします。

絵を描き始めました。

どうにもこうにもうまく描けません。

自分なりに頑張って絵は描いています。

それでも自分の理想が高いがために、自分が下手なことに嫌気が指してきます。

気持ちはわかります。

しかし自分が今できることはその下手な絵を書くことです。

上手になるためには下手が必要ということ。

ということは、下手だからといって嫌になるのではなく、下手なら下手なりにベストを尽くすしか道はないということ。

下手でやめたくなるようでは、それは本当にやりたいことではなく、何かの手段にしている可能性があります。

つまりは今この瞬間の自分のレベルを認めて、感謝しなければならないということ。

実力だけにとどまったことではありませんね。

人生における基本です。

今に感謝すること。

継続とは諦めとの絶え間ない戦い

初めて人の言葉を借りることとなった投稿です。

「継続とは諦めとの絶え間ない戦い」

物事を続ければ続けるほど、取り組み始めに比べて成長のスピードが遅くなります。

つまりは、当初は1kmおきに変わっていた景色が、100km走っても同じ景色みたいなことになるわけです。

するとどうなるかというと「もうやめっかさすがに」となるわけです。

諦めです。

継続すればするほど、一生懸命走ってもずっと景色が変わらなくなる。

その進むスピードが亀だろうがチーターだろうと関係ないんです。

どちらも一生懸命走ってますから、感覚的には全く同じ。

そして面白いのが、チーターレベルのスピードの持ち主でも、やめていく連中はゴロゴロいるということ。

なのでどんなに足が遅くても、継続できさえすれば、プロレベルの領域に必ず到達する。

それは内藤大助が証明済みである。

継続とは諦めとの絶え間ない戦い。

わからないからと言って挑戦をやめたら、わからないままで終わる

どんな取り組みにおいても、一生懸命取り組めば取り組むほど、歓びと情熱を帯びて自分の技量が上がっていく。

一方で、一生懸命取り組めば取り組むほど、何をどうすればいいのか全くわからないような問題や課題、つまりは試練に遭遇する確率は上がっていく。

それはRPGゲームに喩えるならば、定期的にエリアのボスが現れるのに似ている。

次の面白いステージ、そして自分そのものを次のレベルに到達させるために避けては通れぬ試練である。

そのエリアのボスは、雑魚キャラを苦なく倒せるだけの力量では倒せない。

強いて言うならば、エリア攻略に費やしたすべての力を合わせた以上の力が、そのボスを倒すために必要ということになる。

ではそのボスはどうやって倒すのか?

とにかく本気でぶち取り組む。

それだけです。

それだけと言っても、本気で取り組むというのは言葉で言うのは簡単です。

何回ぶっ叩いたら壊れるかわからない鉄壁を壊れるまで叩き続ける。

それが何万回になるかなど関係ない。

ドリカムのあの曲です。

何度でも!

1万1回目に何か変わるかもしれないんです。

嫌なことがあったら優しくなろう

嫌なこと、なんでもいいです。

仕事でミスして怒られた。

変な人に遭遇して嫌な思いをした。

アンチに煽られた。

批判された、などなど。

特に対人関係の嫌なことですね。

自分が本当は体験したくないような嫌なことは、避けたくても避けられず、食らってしまうことは誰にだって起こることです。

そこで落ち込んだり、イライラしたり、怒りを感じたりすることは簡単です。

こんな嫌な局面だからこそ、あなたがもっと優しくなれるチャンス。

自分が優しくなれないような時にこそ優しくなる。

それがあなたのその心の傷を瞬時に癒やすための魔法なのです。

怒りとムカつきを優しさに変える。

それが覚者の立ち回りです。