情熱や好きなことを探すことをやめろ。やるかやらないか。

やりたいことがある。でも自分の中から情熱を感じない。だからやらない。

何かをやってみたいと思う。でも好きなことがない。だから何もしない。

情熱に頼ること、好きなことに頼ること、どちらも言い訳にしか過ぎないです。

もし本当に何もしたくない、もしくはすることがないのであれば、他人の問題解決に尽力しよう。

もし自分のやってみたいことがあったらチャレンジしてみよう。

自分の運命の職業、好きなことは存在しない。

ただやってみればいいだけです。

それを続けるか続けないかはやってみてから考えてみてはいかがでしょうか。

貴方の命をどう運ぶかは、あなた次第。

やるかやらないかも、あなた次第。

ナインイレヴン

自伝を書くとかほざいたのが7日で、今日が11日。少しでも意識が遠ざかるとすぐに日が経ってしまうのがこのブログ投稿ってやつです。凄まじいスピードで日々が過ぎていくのです。

昨日は弟のヒロキさんから慢性的な体調不良の相談を受け、話を聞いていたのですが、どうにもこうにも現代病かと言わんばかりの症状で、僕が3年前に罹ったパニック障害に似ているのです。つまりです。パニック障害のすべてが分かってしまったかもしれません。原因から症状、治癒方法まで全てです。分かったとは言え、かなり手強いのがこの疾患です。風邪やインフルのように寝て断食すれば治るというものではありません。脳の病気、というか思考回路の異常がパニック障害です。病と付き合う期間は長くなりますし、僕もまるまる3年経った今も、パニック発作は完全になくなったものの、不定愁訴のような、不安障害のような負の波に、定期的に襲われることはなくなっていません。でも着実に完治へ向かい進んでいっていることは間違いありません。

ということで、そろそろBTのコンテンツ制作開始しまーす。

自伝連載スタートか!?

そろそろまたブログ執筆の勢いが付いてきたと言ってもいいんじゃないでしょうかね。またいつ止まるかはわかりませんがw そうか書いてみたいことか。自伝書くのも面白そう。
1989年8月5日、毎年恒例、年を通して一番暑い日に、東京のコンクリートジャングルの中で生まれたそうです。しかも皇室御用達のA病院。親父は仕事でワイハにいたそうで、誕生の報告と同時に帰国便を手配したんだとか。母親と父親は空の上で出会ったそうで、正に翔んでる最中。翔樹という漢字も、スッチーだった母親が好きだった漢字だそう。まぁ記憶と聞いた話を混ぜながら30歳までのストーリーを書いてみましょうか。どうなることかはわかりませんが。書くことで点と点が繋がるかもしれないし、自己分析にもなるかも。僕実は記憶力が無駄に良くて、覚えている映像の容量は多分人並みじゃないレベルテラバイト。なので自分の中に保存されている映像を言語化していくのがこの自伝執筆というものになるかと思います。毎日少しずつ、みみっちく書いていきます。今日のところはみ。

集中力と無駄の省略

人生で一番大変なこと、それは自らの意志で事を進めるということだと思います。いや、これを書いていて思った。違う。違うわ。自分以外の何かが自分より大切になってしまっている時、人は自分を生きるのではなく、その「何か」のためにしか生きれなくなってしまう。ということですね!やべぇやべぇ。というか、そうなっちゃうっしょ、このアンバランスな世の中に生きていたら。だからこそ自分の軸の強さが重要になっていく時代に突入していくこと間違いないです。長野の避暑から戻って10日ほど経ったからか、ようやく本気モードに入って来ています。何かが変わるってものでもないんですが、徐々に可動域を増やして、いろいろなプロジェクトの世話を本格化しています。いろいろなプロジェクトの世話を本格化させると、何が課題になってくるかというと、集中力と無駄の省略です。あとは時間配分。いつどこにどう時間を費やすか。それが年末にかけての課題になるかと思います。あと夏が終わって涼しくなってくると、あの悪夢を思い出します。一生忘れることのないあの悪夢を。

OMENS OF LOVE

永遠に美しくに続き、またとある僕の中のミッシングピースが埋まりました。T-SQUAREの曲だったのか… まさしく先日松川で辿り着いた神社のように、まさかあの曲はT-SQUAREだったのか!?というような、驚きの感覚とマジかというか、そうです、僕がアメリカに立った年、小学六年生だった僕は金管バンドに所属しており、その最後の年にオーメンズ・オブ・ラブを演奏したのでした。2年目の僕はコルネットセクションから打楽器セクションに移転しており、僕はその時はコンガを担当していましたが、そうです、一番最後におれが金管で演奏した曲、それはT-SQUAREのオーメンズ・オブ・ラブだったのです!なんてことでしょうか!いや、当時からなんかキャッチーでいい曲だなとは思っていましたが、まさか2001年から20年後にやっとそのアーティストが判明し、さらにそれが僕の大好きなTRUTHでおなじみのT-SQUAREだったとは… 青天の霹靂です。f*ckkkkkkkkって感じです。マジですか!?って感じです。いや、気づく遅いとか関係ないんですよね。僕はただ僕の人生を歩んでいるだけで、僕が過去に触れたが認知までに至らなかったものが最近多々形になるという面白い現象、偶然かつ必然な点と点の繋がりを感じている今日このごろでございます。

あと一点、文章書くのも筋肉なんだなとも思いました。またブログを再開したものの、しばらく文章を書いていないからかやはり衰えを感じるわけです。当時は毎日書いていたからか、全くもってそれを感じませんでしたが、やめて初めて文章力は筋肉だったんだなとわかりました。マジでそろそろリアルにアウトプットしまくる準備をしているので、ブログ執筆で頭の体操。良きウォームアップでしょう。

ちなみにOMENS OF LOVE, 作曲した和泉さんがピアノで演奏されているのを見つけて、最初は変なおっさんがOMENS OF LOVEピアノで弾いてる上手だななんて思っていたのですが、まんまと作曲者かつT-SQUAREのメンバーだったとはマジ勘弁してくださいって話です。そして20年前の疑問が一つなくなったと。

もしよかったらオーメンズ・オブ・ラブ、聴いていってください。

あと最後に、足立区立鹿浜小学校 音楽の宗像先生、オーメンズ・オブ・ラブをありがとうございました。

永遠に美しく

先日ふと、死んだ親父が観ていた映画を思い出したので観てみました。「永遠に美しく」という映画です。1992年に公開された映画で、原題は「Death Becomes Her」訳しまして「”死”になった彼女」です。邦題の通り、誰も避けることのできなかった「老いること」を、とある秘薬を飲むことで老けることがなく、そして死ぬことのない体を手に入れる、という描写が出てくる映画です。人間は、特に女性は、若さと美しさを男性よりも追い求める傾向があるようで、その人間性を描いたブラックジョーク作品と言えます。一応コメディという部類らしいです。

この映画、多分僕が小学低学年の頃でしょうか、父親がレンタルビデオショップ(ウェアハウス)で借りて観ていたんです。その時はなんか怪しい映画を観ているなくらいしか記憶がなかったので、どんなストーリーかまでは覚えていませんでした。調べてみるとちょうどアマゾンプライムであったので観ちゃったわけなのですが、この「死」というテーマについて考えさせられました。

まず人間の感じる恐れですが、これはどんな恐れであろうと、死に直結しているから感じる恐れだと言われています。その死を人間から取ったら恐れなく生きれるようになると思いますよね。そう思う方は是非一度、永遠に美しく、観てみてください。絶対死にたくなるはずです。おれもぶっちゃけ、あー死ねるいい〜って思いました。心底。

その数日後にまた死に関する作品をYouTubeで観たのですが、それはまた別の記事に。そして死のインプットをまとめた記事はbreakthroughにアップ予定です。

ブログ再開!

breakthroughにブログ記事を全部移管してたのを戻して、Shoki.jpを復活させました。理由は、ぶっちゃけ僕のブログ記事とbreakthroughのコンテンツは無関係だからですw インデックス数を増やしてbreakthroughのサイトオーソリティをアップさせるのが目的で、Shoki.jpの記事を全部breakthroughに移した訳なのですが、それがやはり無駄だったというか、ちゃんと面倒を見れないとどちらも腐っていってしまうわけです。

もちろん自分のためにできればそれでいいのですが、一応誰かが読むであろうメディアである以上、読者のためにもなっていないとどうしようもない、ということで、個人的な記録と目的を持った執筆をやはり分けることにした、ということです。あとは自叙伝も書きたいなって感じ。

ではでは。

「何かしなきゃ」という感覚を手放す

何かしなきゃ。

何かしなくちゃ。

こう思ってしまう状態は、何かをしていない自分に不安が生じる時です。

何かをしていないと、自分が自分でなくなってしまう。

取り組みそのものが自分の存在より大きくなってしまっている証です。

自分の存在より大きくなってしまっているというよりは、自分が取り組みそのものより小さくなってしまっているのが正解かもしれません。

取り組みは取り組みで絶対なはずです。

自分が取り組むという状態であれば一切の問題はありませんが、自分のために取り組まなければならないという状態では、取り組みの方が自分よりも優ってしまうのです。

「何かしなきゃ」と思っている状態では、何をあがいても積み重なる取り組みにはなりません。

その状態は、その何かを達成することで、自分が見つかると信じ込んでいる状態だからです。

取り組みを通じて、自分を探している状態です。

自分が自分を探すなんて矛盾しているとは思いませんか?

ずばり、矛盾しているんです。

見つかるわけないんです。

メガネを頭に掛けてメガネを探している状態と同じです。

探しものはあなたにもうすでに付いてますけど〜!っていう。

何をしてもいいんだ。

何もしなくてもいいんだ。

あなたはあなたに何を足さなくても完璧なんだ。

これをぜひ心得て生きてみてください。

自分が自分に見出す意味や幸せ、価値は取り組みを通じて得るものではなく、生きるそのものに備わっているもの。

あなたには、今この瞬間にだけ感じることの出来る「生きる歓び」を、今、感じる権限があるのです。

生きましょう。

ビジョンは自分の出来る範囲のものしか描けない

ビジョンとは、今はまだ実現されていないものの、いつかは実現したいと考えている未来予想図のことです。

このビジョンを描く時、どこまでのスケールを描くかは、書く人によって異なるのはごく自然なことかと思いますが、実はこの描くビジョン、自分の出来る範囲までしか描けない仕組みになっています。

もしあなたが、世界チャンピオンになりたいというビジョンを描いているのであれば、あなたには世界チャンピオンになれる素質が備わっている、ということ。

自分の中に「不可能」さえなければ、ひたすら真っ直ぐに突き進むだけで、本当に世界チャンピオンになれます。

しかしそのビジョンを信じ、取り組みを行っていく中で、誰もが直面するのが試練です。

あなたの描いたビジョンを壊してくるような、逆境です。

それを勢いよく乗り越えることが出来たのであれば、そのビジョンは生き続けますが、少しでも怯んでしまうとその描いたビジョンのスケールが小さくなってしまいます。

つまりは、最初から出来ないと思っている人は本当に出来ないし、出来る人でも、そのビジョンがなければそこに行くことも行けることもないということ。

逆にビジョンさえも描かずに生きる人もいるということです。

Whatever the mind of man can conceive, it can achieve. – W Clement Stone
人が考えられることは実現できる。- W クレメント・ストーン

とにかく手を動かせ。手数が勝負。

立ち止まって悩むよりも、無駄だと思って停止するよりも、無駄だとしてもとにかく手を動かすことが限界突破をするために必要です。

理由は簡単です。

無駄と思っていることさえ無駄だからです。

無駄と決めつけているのは思考であり、実際の進歩が起こる時は、思考を超えた脳細胞レベルでの変化が生まれる時です。

あなたが無駄と思う取り組みでさえも、この脳細胞の変化に影響を及ぼしているのです。

さらに付け足すと、成長というものは、取り組みの最中に自分で実感できるものではありません。

筋トレと同じで、筋トレそのもので体が成長するのではない。

筋トレ後に、損傷した筋肉細胞が体の仕組みとして再生されることが、実際の「成長」ということになります。

出来なかったことが出来るようになるということは、その原理と全く同じです。

もちろんあなたの取り組みなしには実現されないものの、あなたの実際の成長は、あなたが寝ている間などの無意識の状態で行われているのです。

無駄かもしれなくても、どうすれば次のレベルに到達できるかわからなくても、とにかく手を動かす以外、我々人間に出来ることはないのです。

宇宙の叡智(Universal Intelligence)に身を委ねるしか、我々人間に与えられた術はないのです。

手を動かす以外。