生き方のお話

2020年9月14日。昨日は死んだ親父の誕生日でした。僕は今31歳ですが、最近のぼくはと言いますと、完全OFFに近い状態の感覚で日々を過ごしています。近い状態と敢えて言うのは、何もしたくないバケーションモードの完全OFFのそれとは類の違う完全OFFなのです。私たちの身近なツールに喩えてみると、スマートフォンの中には沢山のアプリがあるかと思うのですが、このアプリがすべて起動していなく、ただスマートフォンが起動している状態のような感じです。電源は入ってます。フルチャージです。自分が最高の精密機器であることは自覚しています。でも肝心のアプリが起動していないのです。アプリなくしてスマートフォンの利便性や可能性は語れないですよね。でも今はアプリを起動する気分にもならない。どんなアプリでも起動できると知っています。敢えてアプリを起動していないと言ったらいいでしょうか。逆にスマートフォン周りの片付け(断捨離)や、オレは一体どんなアプリを起動したいんだ?なんて考えながら、このスマートフォン(自分自身)の使い方ないし活用方法を考えている感じです。

失礼、アプリという言葉を使うと少し語弊があるので説明し直します。言い換えると、オレとは一体全体なんなんだ?!というテーマに、自分の行動を外に向けるのではなく、自己の内面に意識を向け、そもそもお前はこの人生で一体全体何がしたいんねん?(どんなアプリを起動したいんねん?)って自問しているわけです。

答えは簡単に出てくるものではありません。簡単に出てきてもらっても困りますし、でもそろそろ答えに辿り着きそうな兆しも感じもしています。

ではこの自己探求の道のりを進む中で、何をすべきかというと、これは夏の大鹿の滞在時にインスピレーションをもらっていました。無意識を無くす、すべてを説明できるようにする、自分の世界を作る、の3つでした。これら3つのインスピレーションは、大鹿の山奥に住むイギリス人のティムを通じてもらったものです。彼は僕の1つ下で1990年生。5年ほど前にイギリスから大鹿に移住して来た面白いやつで、彼とは去年の春に繋がりました。その彼の生き様なのか方針なのかはわからないのですが、マジで自分の世界を創り上げているのです。無論僕のファミリーの大鹿チームも世界を創り上げていますが、ティムの場合は彼のイメージする世界が鮮明すぎて、それをタバコを交えながら熱心に語ってくれるのですが、我々都会人のもつ人生、いや幸せの定義から正反対の理想を掲げて生きているのです。無論、大鹿村という標高1,200mの山奥に住むレベルであれば、そのような理想、そして生きることへ対する熱意を持って生きているであろうことは僕もある程度は予測してはいたものの、今回始めてティムと多くを語ることが出来て初めて、彼のその熱意の熱さ、生きること、そして共同創造への覚悟、そして死へ向かうまでのジャーニーを考える様を知ることできました。すべてがショッキングな内容だったのです。

これを機に、私平山翔樹は岐路に立つこととなったのです。これは仕事やお金云々の話ではなく、お前の創りたい世界はなんなんだ?!という大きな張り紙のある岐路です。ティムの生き様からしたら、オレの生き様はなんて生ぬるいんだ。そう感じました。

お前の求めていたものはそれだけか?いや、お前は何を求めているかさえも分かっていないな?お前は何がしたいんだ?

そんな声が聞こえたのです。そのためには少しでもティムを見習い、お寺の修行と言わんばかりに、まずは形から入ったろう。そう思いました。僕がWeb制作会社を営み、どれだけの技術と経験と感性を兼ね備え、どんな大きな会社と取引できようと関係ないのです。そんな浅はかな、他人が定義できるようなレベルの話ではないのです。生き方のお話なのです。

翔樹よ、お前はどう生きどんな世界を創りたいんだ?

背中を押される

Twitterを一時期熱心に更新していた時期があったのですが、最近は、自分が発信すべき内容を見直すという名目で、一旦は頻繁なツイートは控えています。ただこのツイッターというプラットフォームを通じて、自分はどのように人類に貢献できるのであろうか、ということをまだまだ考えている最中です。

そんな中、たま〜にTwitterは開くのですが、本日久々に開いてみると僕のこのブログで昔投稿した記事をどなたかが見つけ、なんとその記事を引用ツイートしてくれていたのです。まぁこれはツイッターの歴史上初の出来事だと思われます。Shoki.jpの記事が紹介された!というね。https://www.shoki.jp/balance-and-permanance/

もちろん自分の書いた記事を引用までしてくれて、インスピレーションを受けたというツイートは嬉しかったのですが、やはり私の方向性はこの方面にあるのではないかと。テックとか英語とかもやりたいんだけど、やっぱりインスピレーション(ライフ・レッスン)系のメッセージ発信に趣きを感じるわけです。

自分の書いたコンテンツが誰かの人生に少しでも良い変化を与えた。その歓びの一角を味わったような、そんな朝でした。そしてその人のフィードバックに背中を押され、さらに僕はその方向性に確信を持つのでありました。

怒りとムカつきを減らして人生のクオリティを上げる方法

怒ることって悪いこと?

怒りとムカつきはあなたの力を封じ込める

喜怒哀楽の中の一つである「怒り」という感情。人間だけでなく、自然界の生き物にはこの怒りという感情は誰もが持っています。そして人間の持つ怒りには2種類あります。ひとつは全ての生き物に共通する、威嚇や自己防衛としての怒り。そしてふたつは、何の目的を果たすこともない、自分の中で感じる他人や出来事への苛立ちです。この記事では後者の怒りについてとなります。

この考察における興味深い事実は、後者の場合、その他人がその場に居なかったり、その出来事が過ぎ去ったとしても、怒りを継続して感じる人がいるということです。つまり、その怒りを感じたところで、今この瞬間を脅かす出来事を回避できるわけでも、シチュエーションを変えることが出来ることもない「怒り」があるということです。果たしてこの怒りを感じることに意味や目的はあるのでしょうか。

さらに面白いのが、この怒りは自分で抜け出すのが困難であるという点です。なぜ自分が奴にムカついているのか、そしてなぜ自分は正しくて相手は間違っているのか等など、自分の思考で自分の怒りを正当化しようと、頭の中で架空のストーリーを語り始めます。その架空のストーリーは「自分」にとってのお話で、誰もが同じことを考えない可能性もあるのですが、怒りの行き先が無いため、「とにかく自分が正しいことを自分に繰り返し言い聞かせる」という罠にハマってしまいます。この罠こそ、「目的を果たさない怒り」の正体なのです。

POINT: 目的を果たす怒りなのか、ただ単に自分の正当化したいだけなのか。その違いを意識!

怒りをなぜ減らしたいのか

邪魔だからです。その感覚を持って生きることが、私達の創造活動にとって邪魔でしか無いのです。別の言い方をするのであれば、目的を果たさない怒りは全て無駄なエネルギーの消費、エンジンの空ぶかしとなってしまうということ。自分の燃料を使うと同時に、エンジンにもダメージがある。良いこと一つありません。そのエネルギーを別の創造に使えるのに、意味のない怒りで消耗してしまっては本末転倒。我々は他にすることが山ほどあるのです。

スティーブ・ジョブズがあの有名なスタンフォード大のコメンスメントのスピーチで「他人の人生を生きている暇はない」と言いましたが、今回のお話に通じるものがあります。それは、他人を自分の中で作り出し、それに怒っている暇などない、ということなのです。どう考えても無駄な消費であることが分かります。他人への怒りを減らすということは、より自分の人生を生きれるようになること、とも言えます。

感情に負けない自分を作る

感情は思考に対する体の反応です。思考と体が同一化している場合に、感情に飲まれてしまうという現象が起こります。しかし「負けない」という表現になると、感情と戦わねばならないという風に捉えがちですが、ここで言う負けないは「感情と同一化せずに、感情を俯瞰できるようになる」ということです。本記事にで取り上げている感情は「怒り」ですが、怒りという感情はどんなシチュエーションにおいても、取り組みの質を下げてしまいます。

情緒を安定させる

思考がブレるならまだしも、感情が不安定になってしまうと、体の機能そのもの、人生そのものが不安定と感じてしまいます。怒りの根本は自分を自由にさせていない場合や、とある状況を勝手な決めつけで悪者扱いしている場合が挙げられますが、四六時中何かにムカついていたら、物事が捗るわけがありません。生活的な安定の前に、感情的な安定を維持することが、健全な生き方の基礎となります。

人や物事に左右されなくなる

自分の人生、自分の取り組み、自分の体。一番知っているのはあなた本人です。怒りは大抵、外的要因、つまりに他人や出来事によって引き出される感情ですが、この怒りが全くもって意味をなさないことが分かれば、人や物事に反応しなくても良いことがわかるようになります。外的要因は外的要因に過ぎず、それらにトリガー(引き起こ)されるのが「怒り」の感情になります。些細なことで振り回されていた時の自分は、それを無意識に「気になるものリスト」に追加していたのです。この気になることがどうあなたの人生に役立つことなのか、振り返ってみてください。役に立つことはないでしょう。

怒りとムカつきの根源

ではこれらの感情はどこから発生しているのか。それがわかると怒りという感情の正体がわかるようになります。仕組みが分かれば良いのです。どういうプロセスで怒りという感情が発生するのかがわからないから、戸惑い、怒りに乗っ取られてしまいます。

無力感

むりょくかん。これは自分に現状を変える力が無い時に感じるものです。自分ではどうにもすることが出来ない。だから怒るしか出来ない。さてその怒りに実用性はあるのでしょうか。怒っている先は大抵の場合人になりますが、その人に怒り、なぜそうなってしまったのかを問い詰めたくなるようです。問い詰めたところで、時遅しであったのであればどうでしょう。果たしてその怒りに意味はあるのか。もし現状を変えられる、または打開策があるのであれば、怒らずに交渉すれば一番健全です。

高慢・傲慢

人は大抵、目上の人や、立場的に上の人には怒らないものです。この場合、どうにかして怒りの感情を言葉に変えて、感情をぶつけるのではなく、論理的に言及をすることでしょう。ということはです。怒りを誰かにぶつけている場合、あなたは勝手に上下関係を作り上げているのです。私のほうがあなたよりは上であるという幻想を作り上げています。それが友達同士であろうと関係ありません。あなたはその人より偉いから、その人に怒りをぶつけられる。そう思ってはいませんか?

過去の再生

これは共通の原因からトリガーされるものではなく、人それぞれがもつ過去の実体験やトラウマによってトリガーされる怒りです。そして注意しなければならないのは、これらの怒りは怒りの感情そのものが再生されている(繰り返されている)のではなく、自分が特定のイベント(出来事)と「自分」が同一化してしまっているためにトリガーされているということです。

「またか」「何度も言ってるじゃないか」などの思考が出てきた場合は要注意です。その出来事と怒りは別物で、そう感じるのは、出来事の内容からではなく、出来事どう捉え、どのような解釈をしたから、その怒りが浮上したのかを観察しなければなりません。

演出

自分と相手二人だけでいるときは怒らないのに、観客(家族のメンバー、友達、通行人など誰でも)がいる場合に怒りを見せびらかしたくなるようです。「見たまえ!『私』は『コイツ』のした『悪い』ことに腹が立っている!『みんな』見ろ!『コイツ』は許せない!『私』が『正しい』ことを証明してやる!」

不必要な怒りです。

ここで注目すべきは二重括弧の部分です。
『私』『コイツ』『正しい』『悪い』『みんな』

怒り演出のプロセスのひとつに、
「正しい私 対 悪い相手」
という式があり、さらに周りの人々(みんな)の同調を求めるという傾向があるようです。

欲望

欲望の裏にあるものが奪取です。半沢直樹1の東大阪スチール社長の東田がクラブで追い詰められたシーンを覚えていますでしょうか。東田は不正取引で12億円を溜め込み計画破綻。しかし半沢はそれを突き止め、その12億円を回収します。それが分かった東田は取り乱し、怒りの感情を半沢にこうぶつけました。

「オレの金返せぇ!」

欲望とも言えますが、自分以外の何かが「自分」と同一化してしまっていると(この場合はお金)、その対象が無くなると、自分がなくなったかのような喪失感に駆られ、怒りとして現れるようです。

自分を生きれていない

自分を生きるの意味は一体何なのか。自分の言動が下記のいずれかに該当すれば、自分を生きていない可能性があり、その自分への嘘が怒りの原因となる可能性があります。

  • 誰かを見返すために物事を選択している
  • 誰かの期待に応えようとしている
  • 今の私は不十分で、完成するには何かを達成しなければならないと思っている

時間の幻想

あなたが追われているその時間は、実在する期限に基づいたものでしょうか。例えば、明日16時のフライトが決まっていれば、その時刻には確実に遅れてはならない、実在する期限であると言えます。もしそのフライトに間に合わないようなことがあれば、怒りとは関係ないレベルで「私は今行かなければならない」という選択ができます。切迫した状況でも冷静に決断できるのです。

しかしこれが時間の幻想となると「私には時間がない」という思考が、実用性のない怒りを浮上させ、あなたをコントロールし始めます。特にこの怒りは、想定外の出来事が起こった時などによく現れるようで、この仕組みを理解するためには、まずこの「私には時間がない」という感覚は、常に起動しているがとある出来事が浮上するまで感情がトリガーされれない、潜在意識的な状態であるということを理解しておかなければなりません。

この「時間の幻想」についての考察は、ここでは到底書ききれるものではないので、別の記事で改めて解説するとしますが、「こんなことやってる場合じゃない」とか「なんで今?」のような、心理的な時間からトリガーされる怒りが浮上した場合は、とあるあなたの決める重要なことを今やらなかったとして、本当に重大な損失があるのか?もしくは、本当にそこに「時間」はあるのか?自問してみると良いでしょう。

怒りを減らす方法

ここまでに書いた内容が理解できれば、どのように自分の怒りと付き合っていければ良いのかがわかるはずですが、怒りの感情コントロールをさらに上手に行うための心得を別の角度から見ていきましょう。

内容と感情を分けて捉える

内容とは、出来事のことです。同一の出来事を10人が経験したら、10人全員が同じ感情を感じるとは限りません。ということは感情はあなただけのもの、という方程式が成り立ちます。怒っても怒らなくても状況が変わらないのであれば、感情を切り離してその問題に向き合ったほうが楽だとは思いませんか?怒りそのものには役割はありません。そして怒ることが悪いというわけでもありません。

一人で怒ったところで何も得られることは無いと知る

これを心底から認めることが、怒りという感情を越えるために必要となります。自分の怒りを人のせいにして、一体何が得られるのでしょうか。相手も自分も気持ちよくはないでしょう。その上何が残りますか?気持ち悪さだけです。それよりも、なぜ今自分に怒りの感情が浮上したのかを掘り下げてみましょう。決して相手のせいではないと思います。自分が勝手に作り上げたルールを守れていない自分に嫌気が指しているだけだと思います。

怒りは自分の中からしか出てこないと知る

感情のスイッチは自分の中にある。この事実をあなたは認められるでしょうか。感情の仕組み自体はこちらの記事にて解説していますが、感情は思考と体がぶつかったときに発生する波動です。とある出来事を見て、感じて、初めて感情の波が出来上がります。怒っているのは相手のせいだ、と言いたくなるのはわかります。しかし本当のところは、相手の言動もしくは出来事を通じて、自分の中の怒りが浮上した、というのが正解になります。

さいごに

私自身も多くの怒りに悩まされてきました。自分の場合、大半の怒りはやはり、自分が自分を自由にさせていないことが一番だったと思います。さらにもう一つ重要なポイントとして、自分自身への怒りがほとんどであるということです。これはどういうことかと言うと、自分の持っている思考や、自分の持っているルール、自分の持っている善悪など、自分が決めつけたことが怒りの原因となっているということです。

さらに、まだ起こってもいないことに怒りを感じることもあります。これも自分が勝手に未来がこうなると決めつけ、存在もしていないその「確定したと見える未来」に怒りを感じたりと、巧妙なまでにこの怒りの感情は私たちを追ってきます。

しかし大丈夫です。この怒りの感情があるからこそ、私たちは私たち本来の姿に気づき、人間として成長できるようになります。この感情をコントロールし、自分を生きるためのアラート(目覚まし時計)と捉えることが出来れば、怒りは怒りではなく、本当に大切なこと(心から自由に生きること)のサインポスト(道しるべ)となってくれることでしょう。

競争ではない事柄での勝ちは無駄

決勝トーナメントまで勝ち上がりました。TOP8です。優勝してください。勝ってこそ意味がある。もちろん勝ちに執着せず勝ちに行くことが重要ですが、あなたが負ければ誰かが勝つ。あなたが勝てば誰かが負ける。ということは別に誰が勝っても負けても良いんです。だったら勝ちに行ってください。ということです。

しかしです。勝ち負けの無い事柄なのにも関わらず、勝ち負けという概念が離れずに、苦しんでいたことがあります。例えば、お金持ちの方が勝ち。自由な方が勝ち。理想のパートナー、理想の人生を送っていた方が勝ち。それ以外は負け、のような具合です。

この勝負、あなた以外誰が気にすることでしょうか。決勝トーナメントで優勝すれば、応援してくれた観客は祝福してくれるかも知れません。ですがこの競争ではない勝負であなたが勝利を収めた時(その勝利を決めるのは皮肉にもあなた自身しかいないのですが)、祝福してくれる人は誰もいません。自分の中でそれが勝ちなのか負けなのかもわからず、それを追い求めてしまうのです。

無駄な勝敗を自分で勝手に決めて、勝手に自分を敗者にしないでください。勝手に自分を勝者にしないでください。

生きていることをまずは感じる

あなたが今生きていなければ、現状の善し悪しは別にして、何もかもの存在が皆無となります。この森羅万象が無くなるのです。ということは、人生、人として生きることのファンダメンタル(基礎)、ないし生きる上で必要不可欠な感覚は、紛うことなく、生きていることを感じることにあります。

あなたが生きているからこそ今がある。

生きていることを感じてください。幸せになるために生きるのではない。生きているから幸せだ。どこかで聞く言葉です。

意見への別意見は反論、反対ではない

別の意見が届くと、あたかも反論された、反対されたと感じてしまうことがありましたが、これは実は自分が自分の持つ意見に執着を持っているから起こる現象で、残念ながらその状態は別意見を受け入れようとしておらず、自分の意見が絶対である、という非常に幼稚な意識状態が存在していることを証明しているのです。

反論、反対は、その意見そのものの逆、すなわちその意見の存在そのものを否定することであり、別意見とは別物です。

別意見は、同じ人間として感じる、改善のための提案であり、「より良くする」という意味が込められているのです。

私たちがマスターすべき唯一の精密機械、それは人間という名のマシンである。

これは私が実施していることです。非常に難しいです。どんなゲームより難しいです。特に、思考と感情の完全なる支配はかなりレベルの高い無理ゲーレベルの難易度を誇ると思います。

私は多くのスキルを兼ね備えますが、スキルを習得しようとしたことは一度もなく、どう人間というマシンを操作したら、そのスキルを使えるようになるか、というスタンスで何事も取り組むようにしています。

例えば楽器演奏であれば、私はピアノとマーチングスネアドラム、トランペット、そして次はギターを習得しようと考えていますが、どの楽器を練習するにしても、その楽器そのものの上達は意識していません。どのように自分を手先(体)を操作し、支配するかを意識しています。

人間の仕組みを掘り下げていくには、ノートカテゴリーでは膨大になりすぎてしまうため割愛しますが、人間の操作には多くの知識と実験と失敗の繰り返しが必要不可欠です。

人をお金だけで判断する人は最低最悪

人は人であるのに、人の持ち物で人を判断しているのですから、最低最悪以前に、よくわからない勘違いをしてしまっている状態です。

さらに残念なのはその人本人であり、他人にすることは自分にしている、という普遍的な人間の性質がありますので、自分の本質をお金というコンセプトで置き換えてしまっているということになるのです。

お金で判断され、それがその人をトリガーさせてしまう(ムカつかせてしまう)場合は、ミラーニューロン(お互いの痛みの浮上)となり、お互いのための出来事になりますが、それ以外の場合は、判断している人のみがコンセプトの渦に溺れてしまっている状態となります。

お金は使うものです。あなたではありません。お金から自由になりましょう。

人それぞれ人生における役割がある

あなたの今日の行いが、たとえ無意味に感じたとしても、あなたのその行いがなかったら、起こらなかったことは必ずあります。

そして覚えておかなければならない事があります。我々人間は誰一人、無意味ではなく、私たちそれぞれの役割があるということです。

さらにこの役割という言葉の意味にも注目です。これは実際に役に立つとか立たないとかという意味ではありません。

あなたが家族に乱暴に振る舞っているとしましょう。それにさえも役割があるという意味です。乱暴が良いことであると言っているのではありません。その行為が周りの人間のアウェイクニング(意識的目覚め)を引き起こすための引き金、着火になる可能性があるということです。

人生は競争ではない

競争したいですよね〜。どうにかして奴を越え、ヤツを負かしたいですよね。
負かしてどうなるんですか?
それがあなたの定義する価値ですか?

あなたが勝とうと、私たちは同じ飯を食べ、用を足し、寝て起きて、ヤッて年老いて死ぬんです。

それよりも何よりも、「自分」という作品を仕上げていってはいかがでしょうか。

勝ちは一瞬ですが、その作品を仕上げていく過程は一生で、その作品と一生共にあれるのです。

勝ち負けを伴う競争をするのではなく、自分をただただ極めていけば良いのです。