今が未来につながることを信じて

このようにブログを書く際にあまり良いフローが出てこない場合は、自分の意識状態にもやはりフローがない状態のことが多いです。フローが出ない理由は、どこかでまだ自分に嘘をついていたり、次のレベルに行くことを恐れているから、ということは理解しています。でもやっぱりどこかで自分の思い通りの人生を歩みたいというエゴがあるんでしょうね。流れに任せることがどこかで…

そうか。思い通りの人生にしようとするから余計な思考が働くのか?よくよく考えると、過去の出来事を振り返っても、自分の思い通りにいったというケースよりも、そのようになってしまった、というようなケースが多いような気がする。

そして人間の思考は面白くて、表面的な部分しかあまり見えないということ。表面的な部分しか見えないということは、その出来事がどのように未来に作用するかが分からないために、自分の持つ相対的な価値観でしか、今の状況の良し悪しを判断することができないということです。

ただなぜこんなことを書いているかと言うと、正直言って、うん、大丈夫なんかな?ってちょっと不安になってしまうことがたまにあるからです。書いて不安を払拭しようとする試みというか、まぁでもこうやって書いてみると、僕の自分を俯瞰できるので、記事に起こすことはやはり良いもの、なのでしょうか。

とりあえず、自身の行動のみを信じて頑張ります!

真のクリエイターになる

今日の収穫は「いつになってもクリエイターは作り続ける必要がある」という気付きがあったことです。僕みたいにまだクリエイティブのクもできていないような自分が言うのもなんですが、やはりゴールを目指して日々がんばっているような気がするのですが、どうにもゴールを目指すだけでは真のクリエイターにはなれない気がした、というかなれないと思いました。

特に今の自分の状況からすると、クリエイトしたいというよりも、クリエイトしなければならない、というような状況?というかクリエイトする以外自分の仕事が見つからないのですが、宇宙のインパルス的にクリエイトしているような感覚で、自分の個人的な欲望とはかけ離れている次元で動かされているように感じます。

となると真のクリエイターになるという事は「結果に左右されず、ただひたすらに宇宙のしもべとして創造し続ける」ということが、ファイナル・アンサー、最終回答になりそうです。

そしてそのクリエイティブインパルスは、すべて偶然上に存在しており、その偶然という必然の中で吸収された記憶が、われわれと通じてこの世に出力されていく、ということなのかもしれません。

ちなみにいつかこの記事を振り返るときがあれば、その時の翔樹へのメッセージですが「ちゃんとやってますか?」

一時期はブログを毎日書いていたんです。

そうなんです。なのでまた始めたいと思います。やはり再開の理由として、人生は行動で構成されているということを再認識したというものがあります。行動であり、姿勢であります。ブログを毎日書くということは、ブログの内容に意味があるのでなく、ブログを毎日書くという決まりを自分で作り、それを自分で自分のために実行するという、意志を確認するという事に意味があると思うのです。

あとはアウトプットをしっかりと始める時が来たのかなという印象もあります。自分の考えをまとめるアウトプットという作業は以前もやっていたのですが、前述の「決め事を自分で作り、自分で実行するだけ」という意識、または姿勢は当時の自分にはなく、やはり自分のしたい事というよりも、人生を変化させるという期待が、継続に支障をきたしていたのではないかと思います。

アウトプットの方針ですが、決まっています。自分が面白いと思うことしかアウトプットできない、ということで、シンプルな方針です。ただし、自分に関係していることしかアウトプットできないという風にも取れます。ということは自分のアイディアはすべて採用となる、という方針でもありますので、ネタは無限ということになるのも楽しみなことであります。

ひとりの人間として、そして宇宙の一部として、宇宙の進化に貢献できるよう、アウトプットを改めてしていきたい所存でございます!

なにとぞ!

7年ぶりにロサンゼルスに行ってきました。

久々すぎて夢のようでしたが、僕のロサンゼルスはしっかりと変わらずそのままロサンゼルスで安心しました。感動話はいくらでもあるのですが、それよりも大事なのが、ちょっとそろそろ本気出さないとアカンのちゃう〜?っつー。もっと頑張れるのにお前全然頑張ってないなぁ〜って自分につくづく思いました。自分の持っているものを全部活かしきれてるかって聞かれたら、全然活かしきれてないなぁって。だからもっとちゃんとしっかりやってみようって思ったんです。

ロサンゼルスから戻ってなんかまた火が付きました。これでやんなかったらもう一生やらんなw

変化を少し感じた一日

お久しぶりのブログ執筆でございます!いきなり書こうと思って書いているわけですが、はい、恋はいつでもハリケーン!なんていう恋バナを書けたら余は満足なのですが、そんなお話ではありません。ただまた先月から禁煙を始めまして、というかもう流石にタバコを吸うメリットを感じなくなってしまい、しばらく禁煙しているのですが、気持ち脳に変化があったのか、集中力的な持久力が増し始めている気がするの今日このごろなのです。先月の半ばから禁煙ですから、今日は12日、まもなく一ヶ月というところでしょうか。夜はぐっすり眠れるし、朝は目覚めが良いし、常に一服することを考えなくてもいい。いい事ばかりの禁煙です。

さて何故にも急にブログを書いてみようと思ったかと言いますと、ただちょっと書いてみたくなっただけで、特に深い理由はなし。人生ってそんなもんだと思うんですよね。理由付けなんて要らないんです。自分が感じることだけが正解で、その感覚に正直に生きればいいだけ。やりたいからやる。してみたいからする。理由は、自分がそう感じたから。自分の生きる道、自分のやるべきこと、自分の選択、すべてに理由があるようで、本当の理由は自分の感覚だけなんです。

自分は、自分の定義しているベストを尽くすことしかできませんが、それが果たして自分の目指している正しい方向に向いているのかなんて、絶対わかりません。自分の進んでいる道が正しいと信じて進むこと以外できないのです。これは怖いことです。だって保証がどこにもないのですから。理屈では説明できない、いかにも人間らしく、宇宙らしいことこそ、自分の感覚を信じて進むことです。

この世で最悪の感情

今日は奢るよ。

えっ、いいの?

うん、いつもなんかお世話になってるし〜、そう言えばこの間お茶した時出してくれたでしょ。

そうだったっけ?

気にしないで!今日はいいから。

ありがとう。

という流れで二人分高級ディナー代15,000円をシャキーンと支払うのと、賭けで負けて15,000円シャキーンと支払うの、どっちが心地良いですかね。

同じ15,000円の支出です。同じ支出なのにも関わらず、試合の賭けで負けた場合の支払いは、嫌悪感を感じます。

そしてその嫌悪感の行き先が愛する人だと矛盾が生じます。愛する人に嫌悪感や敵対心を感じるというのは、僕的には、心が感じられる感情の中で最悪の感情だと思うんです。誰かが憎いとか、そういうレベルの感情ではないです。この世で最悪の感情です。

愛と憎しみが干渉する感情は、この世で最悪の感情なのです。ナルトとサスケのようですね。サスケは感情ガン無視でナルトをぶっ飛ばし写輪眼を開眼させましたが、それくらいぶっ飛んだ最悪の感情というのが、愛する人への憎しみなのです。

マジで号泣したし、二度と味わいたくない感情だと思った。

賭けは悲しいかな。

みんな違ってみんないい

11月の13日です。昨夜大鹿村から帰還しましたが、南から低気圧が流れ込んでいるらしく、さっきはパッドを叩きながら半袖になってしまったくらい暖かく、もやっとしています。

大勢の家族と1週間と少し過ごしましたが、今こうしてオフィスでひとりになると、なんだか寂しいですね。寂しいと同時に、また明日から集中の毎日が始まると思うと、この静寂と孤独は必要であるのかなとも感じます。

この1週間の滞在で特に思ったのですが、頭で考える「こうあるべき」という概念は人を苦しめるということ。確かに、改善や成長は誰しも必要かと思いますが、「こうでないと失格」と言わんばかりに、「自分の常識」という非常に制限された概念の中で「こうあるべき」と決めつけてしまうと、どうにもこうにもフィールグッドにはならない。何故かと言うと、人間誰しも性能や特性は異なるし、人それぞれが完璧であるのにも関わらず、自分という個々の常識で人をジャッジしてしまうと、相互的に優劣が生まれるからです。私は出来ているけどお前はできていない、だからお前は私以下だ、という風に、平等な関係を維持することができなくなる。するとどうなるかというと、常識外の人へは愛を表現できなくなってしまうのです。

この状態は、自分のほうが正しくて、相手は間違っていると思ってしまうというエゴの仕業で、相手を正したり、相手に自分の常識を押し付けることになります。エゴにとっては気持ちいいかもしれません。相手を操作して、否定して、自分があたかも優位であるように感じられますから。

でもこれは実はよく観察すると、とてもフィールバッドな状態なのです。どう考えてもフィールグッドではないでしょう。常識を押し付けるイコール、自分自身で自分を制限している内容を再生していることになるのですから。相手は関係ないのです。自分を苦しめている常識をただ人を通じて見ているだけなのです。

みんな違ってみんないい。表面的なところしか見えないから、人を嫌いになる。そして人を表面的にしか評価できず、表面的にしか愛せない。本当のその人や、本当の愛はそれを越えたところにあるのです。

仕合わせ

長野県大鹿村から中継でお届けします。中継でもなんでもないんですが、たまにはというか、大鹿村からブログを書いた記憶があまりないので、最近の感覚をアウトプットしてみたいと思います。いくつ出てくるか分かりませんが、ひとつずつ。

まずひとつは、生きることについて。人は生まれたくて生まれてくるわけではありませんが、生を授かった以上、生きなければなりません。自分が誰のもとに生まれようと、どこに生まれようと、どんな時代に生まれようと、生を授かった以上生きなければなりません。しかしながら、人は皆平等と言えど、生まれた環境によって人生の内容は大きく左右されます。へんてこな親のもとに生まれた。教育や教養が未熟だった。自己が確立しないままに社会へ出てしまった等など、この人間の創り上げた文明に対応できない状態で大人になってしまうと、様々な弊害が生まれます。

ここで残酷なのは、弊害を持ち合わせようといなかろうと、生を授かった以上生きなければならないということです。さらに残酷なのは、弊害を持ち合わせている人に限って、さらに人生体験が悪化していくという事実です。金銭面だけならともかく、それが肉体、そして精神に悪影響を及ぼしていくのです。するとどうなるかというと、選択肢がなくなっていくのです。自分のしたいことができなくなる。そして自分のしたくないことをしないと生きていけなくなるのです。

したくないことをしないと生きていけないという状態は、自分の意志を尊重しない生き方と同義となります。それは自己否定や自己嫌悪、さらに過去や人を恨みながら生きるという、言い方は良くありませんが、一番NGな生き方となってしまいます。この状態を起源としてしまうのが、中毒(Addiction アディクション)です。酒タバコ、薬、セックス、ギャンブルなどを介して、自己否定を忘れるために中毒に走るのです。するとさらに体と精神は蝕まれていきます。自分の持つ過去の痛みを治癒するのではなく、中毒で自分の向き合いたくない感情を紛らわすのです。

ではここからの脱出方法はあるのか?残念ながら、中毒に苦しむ本人に中毒を克服したいという意志がない場合、自ら中毒を克服するのはほぼ不可能でしょう。中毒は溺れている状態であり、その人に泳ぐ力がない場合は水面に上がることは不可能だからです。これは万事休すなのか?ほぼ万事休すです。救命救助隊が浮き輪を投げてくれないとほぼほぼ終わります。ただ面白いことに、浮き輪を投げてもそれに掴まろうとしないどころか、浮き輪が助けの浮き輪に見えず、浮き輪が余計なお世話に見えてしまって浮き輪に手を伸ばさなくなってしまう状態もあり得るということです。おーい、お前溺れそうやで。大丈夫か?はよ浮き輪に掴まるのだ!と言っても、は?余計なお世話や!こっちはこっちで大変な思いしてるんや!貴様に私の何がわかる!と言わんばかりに浮き輪に掴まることを拒むのです。

しかしです。友人が溺れかけていた場合は別です。掴まることを拒んでいようと、助けねばなりません。友人を見殺しにすることはどうしてもできない。ただ浮き輪に掴まることを拒んでいる人を助けることは至難の業です。もがき溺れて自己を失ってバタバタしながらパニクっている人を掴んで引っぱり上げることは大変なのです。それでも助けないと死んでしまいます!だから強引にも手を掴んで引っぱり上げます。マジで疲れるし、しないのでよければしたくないし、ましてや助けてもらうことを拒んでいるのですから、無理やり助けなくてもいいのではないかとさえも思ってしまいます。でも助けないとダメなんです!ワンピースのルフィの声が聞こえてきます。仲間だから!!

さてなぜにこんな話をしているかというと、リアルガチのお助け案件が現在進行形でございまして、マジの救出案件。助けないとマジでこいつ終わる。っていう案件が今あるんです。終わる?人間としてです。

あとはここ数ヶ月の出来事のお陰で色々となんか吹っ切れた気がした。理想とか、人生こうあるべきとか、全部なくなった。人生とは、今この瞬間を100%体験して、共有し合うことなんです。そこに駆け引きが生まれるから人生おかしくなる。隠し事、決めつけ、偏見、騙し合い、脅迫、そして攻撃と謝罪。これらがあるから人生体験がおかしくなる。生きているだけ、その場に一緒に居れることだけが最高で、それ以上でもそれ以下でもない。

人が好きとか嫌いとか関係ない。ただの選択。そしてただの縁。縁があって、選択が一致するなら、それ以上の仕合わせ(幸せ)はないのだから。

記事画像は隣の中川村の銀杏並木
Google Maps

こちらは昨夜の皆既月食の夜空
これがiPhone 14 Pro Maxの実力。あっぱれ!

LIFE IS GOOD.

Twitterのジャック・ドーシーは一日一食らしいのですが、本日私なんと三食も食べてしまいました!腹減りすぎ!てかジャックは晩飯だけとか、日中はマジでプチ断食効果でキマってんだろうなぁ〜。すごいなの一言。

たまにあるんだよね、マジで犬みたいな一日を過ごす日が。飯食って昼寝してまた飯食ってみたいな。結局今日仕事始めたのは夕方だし笑 でもね、仕事量が多くなるとこうやって手が止まってしまう傾向にあるのは確か。なんか終わりが見えないから、手を付けても意味ないみたいに感じちゃって、だらけちゃう。だから今日の学びは(今日というかいつも気づくのだが)ちゃんと一日の成果を決めてタックルすること。やればずっとやり続けられちゃうからこそ、プロジェクトの工程表と納期を確認して、逆算してタスクとエピックをやっつけることができれば、もっと自由な時間が増えるし、精神的負担も減ると思うんです。

ということで、明日はちゃんとやります!寝る前に明日の予定を立てます!こんなに仕事があるのが久々すぎてちょっとブレてるかな。プレッシャーとかストレスはゼロなんですけど、もう少し効率化できるかな、という感じ。今までと違って仕事だけが仕事じゃなくなってきているので、別のアプローチを模索中というところです。

さて明日は10月最後の金曜日ですか。いいね。まぁ曜日は関係ないんですけどね。今週末は久々のお家Weekend. あっそうだ、まだ今年は灯油を買ってなかったんだ。明日買いに行こう。これを書きながら気持ちいいあくびが出てきました。洗濯物を干して、歯を磨いて、目が重くなるまでピアノでも弾いて、寝ようと思います。ふつーのブログ記事が書ける幸せ。ひろきからはカレー今までで一番美味かったって褒められるし、明日はラーメンナイトだし。うん、LIFE IS GOOD.

Good fucking luck

今まで通りに戻るだけです。なんの変哲もない生活に戻るだけです。そもそも何もないところから始まっている話です。邪魔者の居ない、平穏な生活に戻る。なんて清々しいのでしょうか。荒れゆく嵐が去り、静寂とともに太陽の陽が照らされる。今まで通りの生活がどれほど幸せで完璧であったかを思い知らされました。それに加えられるものなど何もなかったんです。既に完成していた。そこに何かを足そうとするからおかしなことになったんです。

そしてこの泥沼話は今日で最後にしたいと思います。ということで最後に一言。

Good fucking luck.