僕の夏休みの自由研究

やってみたいことがある。そう、僕の夏休みの自由研究である。それは何か。YouTubeを観ないことである!笑 いや、半分冗談半分本気。最近凄く減ってるのよ。動画鑑賞。だからいい感じなんだけど、減ってるじゃ意味がない。脱原発と言わんばかりの、脱ユーチューブ干渉を明日からしてみたいと思うんです。明日から?そう、明日から田舎の山奥へ引きこもります。ちょっとの間ね。ではなぜにユーチューブをやろうと思っているのに脱YouTubeをするのか。カンタンです。我々人間は四六時中動画を見ているべきではないと思うからです。いやごめんなさい、そもそもYouTubeを観ないっていう友人もいました。だからこの脱ユーチューブ鑑賞がすべての人に適用されるとは思っていませんが、僕に限っては大いに適用されると思うわけです。なぜかというと、パソコンが仕事な故、YouTube鑑賞で今を紛らわせることが癖になってしまっていて、それが私達人間の創造力や創造性、そして集中力を下げていると思うからです。

量産体制

ついについに!Webサイトとかプロジェクトの量産体制に入りました!アイディアが止まらなくなってきて、ようやくゾーンに入り始めたのかなっていう感触。とりあえずShoki.jpは復活です。要するに異なる作物の育成はそれぞれに畑を持った方が面倒が見やすくなるのと同じで、畑を分けることといたしました、という所でしょうか。お分かりになりますでしょうか。

兎に角、この一つの投稿が大切です。本日はサイトの引っ越しに時間を取ったので、多くは綴らないとしますが、また色々と日々のアウトプットをしていきたいと思いますので、どうかひとつよろしくお願いいたします。

人間に感じられない感覚はない

面白い夢を見たので忘れないうちに記録したいと思います。昼寝での夢です。

夢の内容の前に、どう本日の昼寝に至ったかを簡単に説明します。今日は朝から撮影案件が柏であったので、前日(昨日)は近辺にある友人というか分身の家に泊まり、そこから現場に行くというプランを実行しました。

前日は午後に友人宅入りで、そこから夜まで仕事をこなし、夜は相変わらずのハングアウト。スマブラDXからのITZY鑑賞会からのブレワイナイトで、就寝時刻は気づけは午前2時過ぎ。2時を過ぎると、体は疲れていても頭が覚醒してしまい、寝付きはあまり良くありません。ベッドインしてから就寝まで30分以上かかったかもしれません。そして翌朝は8時起床ですから、6時間弱の睡眠時間ということになります。

この6時間弱の睡眠に関しても面白い考察がありました。普段は8時間プラスの睡眠時間を確保している自分ですが、今日の6時間弱の睡眠が、ながーく感じたのです。これは、翌日予定がある場合あるあるなのかもしれませんが、緊張して眠りが浅くなるということは簡単に想像がつくものの、今朝は「うわっ!寝すぎた!なんでアラーム鳴らないの!?」と思って携帯を覗くと、5時。まだ大丈夫かと思いまた寝て、「いや!今度こそやばい!」と思って携帯を覗くと6時半。2時半に就寝したとして、6時半に目覚めれば4時間の睡眠です。ですが自分の感覚的には、寝すぎた!という感覚だったので、改めてというか、睡眠は多く取ればいいものではないと思いました。食事と同じなのですね。最近は一日2回の軽めの食事+間食フルーツでかなりパフォーマンスが上がっていて、通じるものがあると感じました。

食事と睡眠は人間の三大欲求の2つです。摂りすぎ、取りすぎが良くないというか、パフォーマンス向上には過剰摂取は逆効果というか、量は関係ないということが分かりました。では、残された人間の三大欲求は性欲です。食欲と競り合えるほどの引力を持つ性欲ですが、性欲を先程の「量は関係ない」という方程式においてはどのように扱われるのでしょうか。こちらの件は完全なる立証はしていないのですが、やりすぎ、出し過ぎに越したことはないでしょう。あと、ここでのキーワードは「欲」という言葉です。食べたいから食べる。寝たいから寝る。つまり食欲と睡眠欲は日々感じる欲なわけですが、性欲に関しては、やりたいからやるという欲にトリガーされて実行されれば良いのですが、食欲と睡眠欲とは異なり、快楽が生じるため、欲にトリガーされなくても実行してしまいがちという特性があります。これが落とし穴で、このような性欲乱用はパフォーマンスを著しく低下させることでしょう。

さて話がそれましたが、短い睡眠ながらも気持ちいい朝を迎え、カメラマンを柏駅にピックアップして、撮影の現場に向かいます。某保育園の撮影で、小さな子どもたちを午前中からお昼まで撮影するというお仕事でした。9時半入りで11時前まで園内での撮影。そして11時半から遠足の現場での撮影でした。まぁ園児が元気でパワフルでカメラマンと僕はエネルギーに圧倒され、楽しいながらも良い意味でのストレスフルな現場でした。遠足は手賀沼湖畔近くの竹林散策からの野外での遊戯で、一瞬一瞬を楽しんでいる多くの園児を見れたことは、なにか言葉に表せられないようなメッセージを受け取ったように感じました。

短い睡眠ながらも回復したといいながら、撮影の仕事をアシスタントながらも体を張りこなすと、さすがに午後にはこたえてくるわけです。帰宅後、カメラマンの友人がソファでスヤスヤと眠り始めるのを見ると、たちまち自分にも睡魔が襲ってくるわけです。ここからです。ここから僕の幽体離脱とまではいかないものの、凄まじい夢が始まるのです。

人間に感じられない感覚はない

夢の内容ですが、舞台は僕の育ち故郷である足立区鹿浜にて。ジェイと散策していると、いつもお世話になっていた理髪店に置かれたテレビを見ることに。テレビを見ていると、Viceチャンネルのような、Discoveryチャンネルのような、ちょっとアングラな感じの番組に切り替わります。そしていきなり、アナウンサーから「翔樹さんの息子のハルトさんからのメッセージ動画があります」とアナウンスされ、映像が移り変わるのです。ここでハルトさんが画面に映るという訳ではなく、内容は鮮明には覚えていないのですが、少しサイケデリックな映像が再生されます。それ自体そこまで驚くべき内容ではないのですが、それを見終わる頃には、なぜか自分に浮遊力が付与されているのです。それで自分の意思で浮くことができるようになっているのです。ここでやばいなと思ったのが、自分の意志で浮くということを本当に味わえたということです。もうひとつすごいなと思ったのが、同じ夢の中でLINEを開くというシーンがあったのですが、トークの一覧の友達が全部、とある人で同一人物になっていたのです!これにもマジでビビったし、マジでアヤワスカを摂取した時に幻覚を見れたりするのは、人間のパーセプション(認識)は自分次第ですべて変わるんだなと感じさせられたのでした。

夢ひとつでなんか世界を見る目が変わってしまったというちょっと不思議な昼寝 on ジュンファースト, 2022でした。

というか久々のブログでしたね。文章を書くって楽しい!自分のインプットをアウトプットに変えるって楽しい!

ではグッナイ。

久しぶりに泣いた。

14歳、もうじきに15歳になるビーグルのルビー通称ルーちゃんが、約一ヶ月ほど前から調子が悪く、多分脳腫瘍なのか、てんかん発作が出るようになってしまったのです。その後は抗てんかん剤で様子を見ながら、ある程度の復活は遂げたものの、良くなっては悪化、良くなっては悪化を繰り返し、今朝になっては、とうとう立つことも食事もできないほどになってしまい、痛みからなのかなんなのか、震えが止まらなくなってしまいました。さすがにヤバいということで、弟と弟の彼女に同行してもらい、午後からルーを担いで動物病院へと足を運びました。市内でトップの動物病院です。過去に何度もお世話になっています。抗てんかん剤の処方で、先週も来ていました。

到着したのは午後3時前でしょうか。いつもは午前中に来ていて、その時は比較的早く(30分ほどで)受診できたのですが、月曜日の午後?夕方?はとにかく混んでいて、受診まで小一時間待ったでしょうか。歩けないルーを毛布でくるみ、膝の上で抱えながら、院内の待合室はいっぱいなので病院前のベンチで待つことに。弟と弟の彼女と他愛のない会話をしながらだったからどうにか耐えられたものの、久々に長いと感じた待合でした。

呼ばれると診察となるわけですが、レントゲン写真を撮ることに。その写真を撮ったあともまた30分くらい待つことになり、3人でマジでげんなりしていたわけですが、説明のお呼びがあり再び中へと戻ります。レントゲン写真の説明を受けると(生々しいので病名の記載は避けますが)、とにかく、年数件しか見られない、原因不明の症状で、この症状がある場合は即時MRI検査→ステロイド治療が必要なものであるとのこと。さすがにこの弱っている状態で全身麻酔でMRIという選択は飼い主としてもないと獣医に伝えると、回復する可能性もなくはないが、このままいくと持って数日かもしれないと宣告されました。本日できる限りの治療(水分補給とステロイド剤の注射)と、できる限りの処方でどうにかお願いしたいと伝え、今日の治療は終え、会計を済まし、動物病院を後にしました。

そんな残り数日と言われても、その場では「えっマジか」くらいしか思わないわけですが、いざ帰って来て、ルーちゃんにどうにか夜ご飯を与え、調子悪そうにしながら寝ている姿を見て、獣医から宣告された内容にようやく実感が湧いて来るのです。しょうがないし、何もできないし、もうどうしようもないけど、悲しすぎる。ルーも年だし、遅かれ早かれ死は逃れられないし、もうどうしようもないけど、悲しすぎる。先週まではおれのことがわかってくれたルーが、もう歩くことさえもままならなく、おれが誰ともわからなくなるところまで体調が悪化してしまっただなんで、受け入れるに受け入れられないほど悲しすぎる。

2月にてんかん発作が起きて、その後抗てんかん剤をもらってから、ここ最近は長い散歩に行ってなかったのに、なぜか行けるようになるまでの回復があったんです。自分でもビックリするくらい、「えっ!お前逆に元気になったんじゃない?どういうこと!?」って思うくらい、前は毎日のように行ってた、ちょっと遠目の公園にも1年ぶりくらいに行けたし、散歩と言えるくらいの散歩も、昨日の朝できてたんです。

それで翌日に様態が急変して、診察を受けたらあと数日!?悲しすぎるでしょう!ちょっと前の散歩できていた状態が、まるで天から降ってきた奇跡。いつもお世話になった散歩のおじさんにも会えたしね。もう死んだみたいに書いてるけど、まだ今は台所でひとりスヤスヤと寝ています。

家に戻ってきて久々に号泣したって話。死ぬことより、死を宣告され、死を考えることのほうが100倍悲しい。悲しすぎる。どうか、ルーにもう一度チャンスを。

ずっとは生きたくないけど、今はまだ生きたい。

以前毎日ブログを書いていた時は、このような感覚になりました。毎日を毎日しっかりと消化しているような感覚、つまり、ブログ記事に自分の感じたままを書くことで、何もかもがリセットされ、また新しい日々に向かえるような感覚です。自分の中で引っかかるものを取り除いて、Everyday is a new dayにするような感覚です。

最近はブログ執筆に全く意識が向いていないけど、このリセットされる感覚を思い出して、今日ブログ記事を書いてみています。

なぜにリセットしたいのか。風邪引いたんです。この時期ですし、症状からしても多分Cちゃんでしょう。久々にKO。丸3日寝て昨日も半日寝たから3日半でしょうか。3日半寝てようやく活動できるまでに復活したわけですが、なーんか嫌でした。去年の春には、生牡蠣食べてそれがあたって3日KOっていうのもあったんですが、今回はなんか、それよりも精神的に不快でした。症状がマジで意味わからなすぎ。風邪だったらさ、咳がゲホゲホとか、鼻水でるとか、インフルだったら高熱で汗だらだらみたいな感じでしょうが、今回は軽く痰がからむくらいの気管支、喉の不調だけなのにも関わらず、発熱もそこまでにも関わらず、強制的にシャットダウン食らっているような症状。よくわからないけど身体がウィルスと戦っていて、その免疫反応でダウンしているような症状。頭痛に、関節痛に背骨とかが痛い。しかも雪雲に覆われていて、暗いし、寒いし、なんか、久々にイヤって切に思いました。マジで鬱w ったくもー。ふざけんじゃねーって話です。本当に悲しかった。久々に悲しかった。なんでこんな目に合わなきゃいけないのって。だから今日リセットしたいので思いっきり書いたるっていう記事です。

ずっとは生きたくないけど、今はまだ生きたい。元気に。

無理と決められるのは自分だけ

目標達成のことではありません。

ごく普通な日常的な選択のことです。

例えば、とあるイベントがあるとします。

そのイベント行きたいとします。

行けばいいだけなんですが、この選択、つまり自分の選択を優先をすることができない人がいます。

自分ではなく、自分が自分に持つイメージが大切な人たちです。

自分の選択を突き進むよりも、他人の顔と自分の立場を優先してしまう人たちです。

これを普通を思う人もいるかもしれません。

しかしこれは日本人に非常に多い性質です。

自分を優先できないという性質は、国民的な性質であり、相対的なものです。

絶対的な性質ではありません。

ではこの自分の選択ができない理由は一体何故でしょうか。

ビビっているからです。

怖いんです。

あなたの顔が汚れるのが怖いんです。

更に言うと、こういう人に限って、他人にも厳しい性質があります。

他人にも常識を押し付けるし、自分にも常識を押し付けている。

だから自分が常識を破るなんてありえない。

だから嫌でも自分の嫌な道を進む。

笑っちゃいます。

「不可能はない」なんていう言葉はちゃっちいですが、別に大谷翔平になろうしているわけではありません。

日々の些細な自分の希望を尊重する選択をするだけです。

そんなことでさえも、無理と決められるのは自分だけなんですね。

人を気にしている場合じゃありません。

自分の人生を生きるべきです。

夢を見るのは気持ちいいが、夢を生きるのは難しい。

憧れはありますか?

夢はありますか?

こんな風に生きてみたい。

あんなように生きてみたい。

あの人みたいな人生を送ってみたい。

そんな夢はありますか?

そんな夢を見ているばかり、今が嫌になってしまってはいませんか?

そうです。

夢を見るのは気持ちいいんです。

寝ている時の夢じゃないですよ。

寝ている時の夢も気持ちいいですが、ここで言う夢とは、期待することです。

自分の人生が、自分の描く夢の人生に変わった時に、ようやく自分の人生を愛せるようになるのではないか、という期待です。

夢を見るのが気持ちいいと言いましたが、これは実は錯覚です。

「夢を見る」と書くと、いかにも幸せそうに聞こえますが、ただの想像です。

イマジネーションしているだけで、体験は何も変わっていません。

もしあなたが夢を見るのが好きなのであれば、一旦夢を見るのはやめて、夢を生きるにシフトしてみていただきたいです。

実際に行動に移そうということです。

夢を生きるのは難しいんです。

なぜならば、夢を生きるということは今と自分と一騎討ちすることだからです。

そこに誰も救いの手を差し伸べてくれる人はいません。

褒めてくれる人も励ましてくれる人もいません。

自分が選んだ道を、自分の意志で、自己責任で進んでいくことこそが、夢を生きるということなのです。

他人を気にしている場合じゃありません。

生きたい夢を生きるのは、自分次第です。

ビビる必要なし

それが何であろうと、誰であろうと、ビビる必要はないです。

ビビるとは、自分の懐(ふところ)に触れられることです。

自分の恐れていることが起こるかもしれない時に、人はビビるのです。

しかしビビるという反応を俯瞰してみると、ビビるという反応そのもにには、全く意味がないことが分かります。

意味がないとは、ビビってもビビらなくても変わらないということです。

ではなぜビビってしまうのか。

記憶です。

心地よくない体験をしたという記憶が残っているからです。

ではビビることを無くすことはできるのか。

YES & NOです。

記憶は無くせないため、答えはNOになるかと思いきや、記憶は記憶に過ぎず、良くも悪くも記憶は今を歪ませているだけなので、それさえを理解して、ビビる反応が浮上した際にその感覚は幻想であると自分自身を俯瞰できれば、YES、無くせるという答えになります。

ビビるだけであれば可愛いもんです。

自分がビビらないようにするためだけに、人生における様々な選択をしてしまうのが一番厄介です。

ありもしない幻想を避けようと生きることとなり、目の前に本来であれば何もないのに何かがあるように見えてしまうのです。

一番もったいない生き方です。

ビビる必要なし。

意味があるかどうかなんて関係ない

一生懸命な取り組みに、意味があるかどうかなんて関係ない。

その取り組みがいつどこで何に繋がるかなんて未知数だし、その時に正しいと思えた取り組みであれば、意味があるかどうかなんて関係ありません。

たとえば、あなたがプロ野球選手であるとします。

そしてスランプに陥っているとします。

不振で、スタメン落ちして、2軍かベンチ入りなのか分かりませんが、とにかく自分の不調、または自分の取り組みの問題点を見つけることが出来ずにいるとします。

第一前提に一生懸命である必要がありますが、その不振脱出という取り組みの中で、一体何をすればいいか分からないとします。

何をすればいいか分からないというよりは、自分のどこに問題の原因があるのかが分からないとします。

この状態であなたのできることは一体何でしょうか。

そうです。

意味の感じられないことをひたすら、がむしゃらにやり続けることが、あなたにできることです。

意味の感じられないこととは、例えば、こんなに練習しても意味ないよな、とか、この練習は意味ない、これをやっても意味ない等など、自分の思考、つまりマインドが拒否している取り組みのことです。

しかしここで理解しなければならないのは、マインドの拒否すること、マインドが意味ないと感じることは、魂、つまり生命力に繋がっているということ。

これをやっても収穫にならないから、これをやっても無駄だから、これをやってもお金にならないから、これをやる時間がないから。

これらは考えは成果主義の産物です。

人間の生命力と行動力を下げているものです。

あなたの一生懸命な取り組みに意味があるかどうかなんて関係ない。

意味ないことを、ひたすら、がむしゃらにやり続けた人のみが到達できる次元があるということを覚えておいてください。

追われる人生ではなく、自ら動く人生へ

追われる人生とは一体どんな人生でしょうか。

追われる人生とは、逃げ回る人生です。

その名の通りですね。

では逃げ回る人生とはどんな人生でしょうか。

逃げ回る人生とは、いつか辿り着くことを永遠と願いながら生きる人生のことです。

何度も繰り返して申し訳ないですが(これで最後)、いつか辿り着くことを永遠と願いながら生きる人生とはどんな人生でしょうか。

いつか辿り着くことを永遠と願いながら生きる人生とは、今あなたのやっていることが、手段となっている人生のことです。

まだ分かりづらいです。

「今していることが手段になっている」とはどういうことでしょうか。

今していることが、あなたの理想に辿り着くための手段、つまり、あなたが得たいと思っている何か、それがお金持ちになるためであれ、成功するためであれ、誰かを見返すため、有名になるためなど、何も付け加えなくても既にあなたは完璧であるにも関わらず、それを忘れ、より自分を武装するための付加価値を追い続けて生きている状態のことです。

あなたの人生は今であり、今日です。

今日あなたは完璧だし、今あなたは完璧です。

なぜ名だたるものを負い続け、自分とこの美しい人生体験を消耗するのでしょうか。

追われる人生から、自ら動く人生へとシフトしてください。

自ら動く人生とは、今自分が完璧であることを心得、今あなたに与えられている全てのことが完璧であることと知り、今を一生懸命生きる人生のことです。

何も追うことはありません。

今を一生懸命生きる以外は。