人を変えようとしたり、変化に期待すると自分が苦しむ。人間関係は自分との関係。

ポイントは、「人」が問題なのではなく、あなたの「感覚」が問題なのです。人に変化を求める。人があなたの気持ちを変えてくれると期待することが本来の問題なのです。

人が人へ変化を求める時、それは人が自分に持つ「感覚」に嫌気が指している時です。自分が惨めになっている。自分が調子よくない。選択を持って生きれていない。その責任が自分にあることに気づいていないため、他人を変えることでそれらの問題が解決されると勘違いしているのです。

対人関係からのストレスが生まれる原因

あなたが日々ストレスや負担を感じていて、次のようなことを思ったことはありますでしょうか。

  • 協力してくれたらもっと楽になれるのに
  • 理解のある人だったらもっと楽になれるのに
  • もう少し稼いでくれたらもっと楽になれるのに

気持ちはわからなくもありません。実際人間は協力しあって生きる生き物です。ですがこれらの内容をよく読み直してみると、自分の心の安定と平和を他人に委ねていることがわかります。「楽になれる」という言葉です。

協力、理解、そしてお金、どれも生活には欠かせないものです。

  • 日々の仕事
  • 人からの理解
  • お金

これらは私たちの人生においての内容であり、自分で上手くコントロールしながら日々暮らせることがベストだと思います。しかしこれらがあなたの感覚や感情と同一化してしまっていると、それらの要素に自分がコントロールされてしまいます。コントロールされているの事に嫌気がさし、他人をコントロールしようとしまう。それが人が人に変化を求める根本的な原因です。

私はこれだけ協力している→あなたももっと協力してよ
私はこれだけ理解している→あなたももっと理解してよ
私はこれだけ稼いでいる→あなたももっと稼いでよ

このスタンスでは「私」と「あなた」があります。私がいるから、あなたもいる。この分離感もあなたの優れない感覚の原因でもあります。

自分の感情と課題を切り分ける

今度は自分の期待する「楽になりたい」という気持ちと、事実を切り分け、事実ベースでの解決策を見てみましょう。

日々の仕事

やるべきことが多い

一緒にやろうと誘う

人からの理解

情報共有が足りていない

責任感や負担があるのであれば伝える

お金

お金が少ない

節約するか仕事を増やす

課題への健全なアプローチは本来このように事実ベースで行われるべきで、私とあなたという概念は無いほうが良いです。自分、そして他人を惨めにせずに済みます。

ポイントは、「何」が問題なのではなく、あなたの「感覚」が問題なのです。人に変化を求める。人があなたの気持ちを変えてくれると期待することが本来の問題なのです。

人に変化を求める原理

人が人へ変化を求める時、それは人が自分に持つ「感覚」に嫌気が指している時です。自分が惨めになっている。自分が調子よくない。選択を持って生きれていない。その責任が自分にあることに気づいていないため、他人を変えることでそれらの問題が解決されると勘違いしているのです。

1 私はこれだけしている。

2 誰に?

3 あなたに。

4 だから?

5 あなたも私のために変わって。

この一連の流れが、自らを自分を惨めにする根本原因です。人のために生きるのではなく、もっと自分のために生きれば良い。もし人のために生きたいのであれば、自分の人生の中で自分のできる貢献として、見返りを求めず与えたらすぐに手放しましょう。与えるものは返ってくる。それが宇宙の法則です。

すべての人々が自分のために生きて、自分のできることがあればを協力し合う。お互いにその人らしく生きれることを願う。自分らしく、自分のために生きることを自己中心的と捉えるのではなく、それをお互いに認め合うのが本来あるべき人間の姿です。

一生懸命生きている時
何かに没頭している時は変化など求めない

あなたが赤ちゃんに愛情を注ぐ時は、あなたは一切見返りを求めません。でも大人になって社会的な思考が芽生えると、どうにもギブアンドテイクや損得の概念があなたの邪魔をしてしまいます。

そしてまた面白いことに、普段あなたが一生懸命何かに没頭している時には、人に変化を求めるような思考は出てきません。むしろ自分が自分らしく生きている時は、みんなが喜ぶことなら何でもするという普遍的な愛と情熱のエネルギーで満ち溢れ、人に変化を求めるという惨めな感覚が入れる余地がありません。自分が自分らしく生きれていない時や、将来への不安という時間をベースにした概念が出てくる時のみ、これらの思考が回ってしまうのです。

他人へ思うことは自分へ思うこと

これを心得ることが出来ると、自分の内面を受け入れ、自分のさらなる進化に繋げることができます。自分が自分の理想に到達していないから、他人に自分を見てしまい、自分が出来ていないことに嫌気が指してしまう。自分に厳しすぎると、他人にも厳しくなってしまう。人生では一生懸命生きることが大切です。そして自分に厳しく、高みを目指すことも大切です。しかしその厳しさが自分への劣等感となってしまうことが問題なのです。

人生で唯一責任を持つべきもの、それは自分の感覚です。他人を思いやることも大切です。ですがその「思いやり」と錯覚する「強制的な変化への期待」が、人間関係における歪みを生み出すこととなってします。

全ての思考と感覚は自分の責任。
他人との関係を改善する3つの選択。

人に思うことが何であれ、その思考は100%自分に責任があります。「私だったらこうするのに」「私だったらこう思うのに」「何であなたはそうするの?」等の感覚は、あくまでも自分ベースの考えです。これらがまず絶対的な真実かどうかも疑う必要があります。

さらに、他人に変化を期待する感覚でさえ、本当に必要なのか?ということも考えなければなりません。

他人との関係においては、許容するか、実用的に協力をお願いするか、関係をやめるかの3択です。

許容

もし長期に渡って同じことをその人に伝えていて、変わらないとしたら、それはその人のあり方であると認めてあげるしかありません。それが私たちがその人に出来る最善のことです。人を認めて生きるのか、変わらないものを変えようと抵抗して生きるのか。どちらが心地よいでしょうか。人を認めた方が心地よいのです。

実用的に協力をお願いする

消極的な人には、実用的に協力をお願いしましょう。ポイントは「何もしないあなたを見てるとムカつく」から依頼するのではなく、事実ベースで「今日はやることが多くて手が付けられないから、やっておいてくれない?」という風にアプローチすることです。あくまでも、あなたの感覚を変えたい故の依頼ではなく、事実ベースです。

あなたのイラつきやムカつきは、やるべきこととは別物です。それらの自分を惨めにしている感覚はあなたの問題で、人生におけるすべきこととは無関係です。自分に全ての責任があると思うことも勘違いですし、内面的に抵抗しているのもあなたである事を心得て「人に変化を求める」という肩荷を下ろしてしまいましょう。

どのような感覚を持って生きたいのか。そしてその感覚は自分で選択できる、ということも覚えておきましょう。

関係をやめる

その人を許容することも出来なくて、実用的に協力もしてくれない、そしてあなたの内面的な感覚も冴えない。ここまでの状況であれば、さっさと関係をやめましょう。人生一度きりです。なぜ泥沼にはまったまま動かないのでしょうか。選択を持って生きましょう。

関係がやめられない・環境的に制限されている場合

特に家族関係、親子関係など、切っても切れない関係の場合は、その人を認めてあげるしか他ありません。

人生における第一優先の事柄は、私たちの内面的な感覚です。他人や外的要因がたとえ理想とかけ離れていたとしても、事実と内面的な感覚は別物であることを心得なければなりません。

例えば刑務所に収監され、3年の懲役で服役しているとします。3年もの間、出たいと抵抗しつづけるのもありですが、抵抗する意味はあるのでしょうか。今この瞬間はこの状況であり、認めるしかないと思ったほうが、内面的には断然平穏でいられるはずです。外的要因が究極の制限である場合でもです。

自分の感覚を制御できた時、初めて自分の人生が始まる

人を変えようとする時、変化を期待する時は、他人に問題があるのではありません。他にやりたいことがあるのに、違うことをやらなくてはならない、どうにもこうにも調子よく自分と向き合えない、などの自分の感覚の問題です。人のせいする時は、大体自分のせいなのです。

まずやるべきことは、なぜ自分はこのような感覚を感じているのかを、自分に問いかけることです。自分の感覚(感情と思考)は他人の言動とは無関係です。自分の感覚と向き合うことが出来るようになれば、人に変化を期待することもなくなります。

一度きりの人生、他人のせいにしている場合じゃありません。他人を変えようとしている場合じゃありません。自分の描きたい人生を自由に描けるのが人生です。自分の全ての感覚に責任を持てて初めて、あなたの思い通りの人生を生きることが出来るようになるのです。

瞑想の目的とやり方。瞑想は人間というマシンの究極のメンテナンス。

瞑想とは一体何なのか。瞑想を行う意味は何なのか。瞑想の目的は、ずばり人間という衣のメンテナンス/調整を行うためです。思考を止めたり、呼吸に意識を向けるなどもありですが、本来の目的は体とマインドをリラックスさせ、常に稼働している人間という名のマシンに、意図的に休息を与えることにあります。

瞑想は自主的に行う身体のメンテナンス

車などの機械と同様、人間もエネルギーの補充とメンテナンスが必要なのです。休息とメンテナンスが行われないと、高次の叡智が強制的なシャットダウンとして、風邪を引いたり、思いもよらない出来事を召喚しストップをかけます。そうでもしないと人間の生命に関わる重大なことに繋がり兼ねないため、風邪などの不調は一種の「生理現象」として我々人間を守ってくれます。感謝すべきメカニズムです。

風邪は叡智が与える強制的な瞑想

ではその「風邪」ですが、風邪を引いて寝込んでいる最中はもちろん熱も出たり喉もやられたりで人体的には苦しいものの、どこかで安堵感というか、平穏を感じるというか、そのような経験はありませんでしょうか。それは身体に不調があるため、その身体の不調に意識が向きます。何を考えようと、何をどうもがこうと、今その瞬間は風邪を引いている身体としか向き合うことが出来ません。リラックス、言葉を変えるのであれば、天に身を委ねるしか無いのです。

つまり普段我々人間が必要以上に使い、囚われている思考から意識が離れ、身体に意識が向く。するとこれも人間の仕組みのひとつなのですが、意識が向く行き先は自然と改善に向かうため、身体の不調である風邪も改善に向かうのです。

身体を天に委ねることで細胞が変わる

ではなぜ風邪と瞑想が関係しているのか。もうお解りでしょう。このリラックスと身体への意識、というメカニズムが瞑想の目的と繋がっているのです。身体全体(マインドや臓器含む)に意識を向けリラックスし、あたかも天に細胞の書き換えを委ねているような感覚にシフトしていくのです。すると我々人間がすることはただ身体を感じることだけで、天が命をあなたに授けたように、身体をエネルギーレベルと細胞レベルでの調整を自然と実施してくれます。

前述の風邪の例は強制的なシャットダウンと形容しましたが、他にも人は無意識にこの瞑想を行っています。例えばお風呂。疲れた日でも嫌なことがあった日でも、温かいお風呂に浸かれば、ふぁ〜っと一息。安堵感とリラックス感に包まれます。お風呂は特に自分の体温よりも温かい湯船に浸かるわけですから、これも強制的に身体を感じることになります。何分お風呂に浸かるかは人それぞれにしても、数分だけでも身体に意識が向けば、前述の宇宙の細胞書き換え作用の恩恵が得られるわけです。

瞑想の目的・意味

思考を無くすことが瞑想ではありません。呼吸を意識することが目的もありません。
生きていることを感じること。天に生かされていることを感じること。
命と身体を感謝して、自分の身体を愛してあげること。
それが瞑想の目的です。

そうすることで自然と身体のエネルギー軸の調整が行われる。
決して「自分」が調整を行っていると勘違いしないように。
調整される場所に行くための手段であることを心得ましょう。

瞑想は目を閉じてじっとすることだけではない

人それぞれ行っているメンテナンスの種類は多岐に渡りますが、自分では瞑想だと思っていないことでも、自然と調整区域へのアクセスが実施されている行動があります。

例えば

  • 運動・エクササイズ(身体を動かすことで身体を強制的に感じられる)
  • 旅行(行ったことのない場所へ行くと身体でその場を感じられる)

つまり巷で言われている「ストレス解消」というものは、身体をリラックスさせ、自分を感じるため時間を設けること。瞑想とストレス解消は同義なのです。

瞑想のやり方 / 方法解説

瞑想法は簡単です。

瞑想は身体と思考をリラックスさせ、自分がただ生きていることを感じる事です。肩の力を抜き、身体全体への重力を感じます。鼻から深呼吸して、空気が喉、肺を満たしていることを感じましょう。目は閉じた方が良いでしょう。そこでさらに身体に意識を向けていきます。つま先、ふくらはぎ、ふともも、臀部、腰、背中、お腹、胸、首、肩から指先、首から上は頭蓋骨、そして顔を形成する目、鼻、口、耳、額、こめかみまで。順番に意識を向けていきます。

身体の次に空間を感じてみましょう。空間が大海原だったとしたら、海底で水に包まれ静寂を感じるかのように、莫大さや聴覚、嗅覚にも意識を向けると良いでしょう。

ひとつのエネルギーフィールドとして身体全体を感じられるようになったら、その感覚を保ち続けます。意識すべきことはただただリラックス。思考を止めるなどの抵抗はやめて(思考は止むものではなく観察するもの)、身体中に広がるぞわぞわ感のような振動のようなエネルギーフィールドに浸かっていれば瞑想は成功です。

瞑想の時間

行う時間帯、行う時間の長さも問いません。朝でも昼でも夜なる前でも。仕事の合間でももちろんOK!数秒でも数十分。自分の身体を感じる癖がつくと、自然と瞑想に費やすべき適切な時間が感覚でわかるようになってきます。

瞑想で意識すべきチェックポイント

  • 身体全身をリラックスさせ、全身をひとつのエネルギーフィールドととして感じること
  • 空間を感じること
  • 静寂を感じること
  • 呼吸に意識を向けること

さいごに

不思議と人間はあたかも「自ら」生きているように誤解しています。大きな間違いです。生命を授けたのは天であり、心臓の鼓動、臓器の活動、全てを管轄しているのは私たち人間ではなく、宇宙の叡智です。自分で生きているように感じてしまうことが思考の誤作動による勘違いで、人間から創造力を奪ってしまいます。人間も自然の一部であり、鳥、動物、虫などの生き物、花や木などの植物が生かされているのと変わりません。宇宙の叡智に敬意を払うこと、そうすることでさらなる恩恵が得られる。それが瞑想なのかもしれません。

Season 2

2016のジェイとの出逢いから今日に至る2年弱の間、このブログ執筆活動からは遠ざかっていました。別にブログを書いてる場合じゃないとか、そういうことでは全くありませんが、とにかくブログを忘れてしまう程の充実した2年だった故のお休み期間だったのだと思います。ブログの文字として残す以上の何かが目の前に現れ続けてきたのです。
しかし時は流れます。ジェイはめでたく外資系企業に入り、昨日、研修のため遥々ニューヨークへと旅立ちました。別に彼の世話を見てたわけではないですが、一旦、僕が彼にできることはすべてやった、そう心底から思え、凛々しい気持ちで彼を送り出せたと感じています。僕とジェイは無論相互関係的にサポートし合ってましたが、彼も僕との出逢いで多くを得、成長、そして社会人としての第一歩を踏み出せるまでに成りました。同じ星からやってきた同志が、胸を張って世界に羽ばたいていく。以上嬉しいことはありません。
本来であれば、僕はずっとジェイとバスティルにて仕事をしたいと思っていましたが、やはりまだお互い力不足。ジェイは、自身の仕事力アップや自分の本当にやりたいことを見つける、という部分で壁を感じていたと思いますし、僕は僕で、人の雇用や組織マネジメントの円滑化という壁がありました。でもこれは試練であり、乗り越えるためのもの。何年かかるかわかりませんが、ひとまずジェイはジェイで世界を見、そして本当に自分に合っている仕事を見つけるというフェーズへ。僕は僕で、会社のキャッシュフローを確立させ、余裕を持ってジェイを迎え入れられるような事業へと成長させるというフェーズへと突入したのではないかと思っています。
これから久々ではありますが、ブログ執筆を再開してみたいと思っています。
さぁシーズン1が終わりました。最高のシーズン1、シーズン1に相応しい内容と運び。そして6月10日からシーズン2がスタートです。シーズン2は大体めっちゃくちゃ面白くなってくるんですが、シーズン2の終わりも大体驚愕すべきことが起こります。さらにシーズン2からは尺は倍以上で、内容の次元上昇が著しくなってきます。僕的にはシーズン1は超絶良好で、これだけでもお腹いっぱいになっちゃうレベルだったのですが、これから先マジでどーなっちゃうんですかね。
ルーちゃん、ハルト、誕生日おめでとう。

人を動かす

人を動かすものは何か。人を変えるものは何か。もしくは、人を動かしてしまうものは何なのか、人を変えてしまうものは何なのか。これはやっぱり、水臭いっすけど異性なんじゃないんですかね。Blu-rayの君の名は。を見て思いました。異性のためなら東京から飛騨にだって行く。異性のためなら飛騨から東京にだって行く。異性って言いましたけど、愛が人を動かすんでしょうね。自分の行動を犠牲にしてまでも、動く。愛という名の自己犠牲であります。

Life is good.

僕は言霊を信じています。口にすることはおびき寄せるもの。自分の人生は自分の発する言葉で変わると心底から思っています。例えば、ジェイと僕が良く口にする言葉があります。Life is good. ライフ・イズ・グッド。そのままですが、人生は素晴らしい、という意味の言葉です。この言葉、不思議な事に、言えば言うほど、唱えれば唱えるほど、人生が良くなっていくのです。言葉なんて言葉に過ぎない、と思っていたとしても関係ありません。良いフレーズからはプラスの周波数が放たれるので、人生の色々な面で変化をもたらします。
ということで毎日言いましょう。
Life is fucking good!

母の日

人間として生きていて、どうスムーズな人生を送っていると思えたとしても、この物質世界における挑戦や試練からは逃れることができません。僕の場合は現実の創造よりも、内面的な試練、つまり自己の魂へ試練が与えられているように感じる今日このごろです。まず第一に、思考を追いすぎです。例えば、考えてもどうにもならないことを考えてしまったり、ふと思いついたことをそのまま流さずに、Googleで検索してしまったり。要するにマインドを使うというよりも、マインドに使われる時がたまに見られるのです。文字に起こせば意識しやすくなるので、自分への警鐘として記録するとします。
さて今日は母の日でございます。おそらく僕の母はこのブログを読むことはないと思いますが、まぁこの人生で誰か1人に感謝を述べろと言われたら、それは紛うことなく僕の母です。とにかく母は偉大すぎます。何が偉大かって、すべてです。覇王色ってやつですかね。許容力MAX、頭脳と感性は天才レベル。いつになっても活気に満ち溢れています。あとはどこかでお互いリスペクトしてることが、やはり血の繋がりを超えた関係性に繋がっているのだと思います。今は関東の地を離れ信州に移ったものの、僕が素晴らしいジャーニーを送れているのも母のおかげです。
というか毎年母の日ってあったんですよね。今年初めて認識した気がw
ANYWAYS
ゆきこサンキュー! and love you.

I miss writing!

I should start writing again. I feel like I have a lot to write.
また何か書き始めるとします。最近はウメハラさんの講演にインスパイアされましたので、それについても書きたいことがあります。そしてここ数ヶ月間で多くの学びがありました。それをまた綴る時が来たようです。

2016年をサクッと振り返る

2016年を振り返れば、反省点は多々あるものの、とにかく変化が著しい年でありました。ジェットコースターのような感じでしょうか。宇宙の流れに圧倒され、6月のLA訪問を境に次々と事が動き出し、特にジェイと共に人生を歩み始めたことと、一緒に過ごした日々が印象に残っています。どんな抱負を掲げたかは忘れましたが、そんなものどうでもいいと感じられるくらい充実した日々で、自分的には、帰国してからの8年間頑張った故の果実がやっと実ったという感じ。仕事はしっかりと前年より良い成績を残したので結果オーライですが、仕事よりもやはり人間関係であったり、肌で感じられる経験が2016下半期に凝縮されていて、人生における価値を改めて再認識できたのが非常に大きかったです。本当にそれ以上書くことはないです。人生は体験であり、概念ではない。概念から幸せを見つけ出すことは不可能です。体験と今という瞬間を第一に生きれば、天が勝手に事を運んでくれます。いかにも僕らしい言葉ですが、事実なんで仕方ないです。今年も何も考えず普通に生きたいと思います。

ブログは行動力の鏡か

昔はほぼ毎日書いていたこのブログも、気づけば更新頻度が適当になってしまいました。理由を考える必要もないかと思いますが、色々と考えてみると、ただ単にちょっと前までは暇だったんだのかなぁ、と。もしくは書くことがまぁまぁあったのでしょう。最近は何も書くこともなければ、書く気さえ起きません。しかし書くことはもともと無意味ですから、別に無意味だから、という理由が投稿に響いているとは一概には言えません。あとは書くことのワンパターン化も少し気にしていまして、日々の活動日記や日々の学びなどを書いてきましたが、それを延々と繰り返してもどうかなぁ、と思うこともあります。インプットが少ないのでしょうか。色々な情報に触れろと耳にしますが、まだまだ僕にとって情報は雑音でしかなくて、どうもニュースやツイッターで公開されているトレンドには全く興味がありません。最近気にしたのはアメリカの大統領選くらいで、逆に情報のない世界に住みたいくらいの勢いです。とは言っても、やはりまたこのブログをしっかりと書くこともはじめなければなりません。理由はただひとつ。行動力向上のためです。このどうでも良いブログであっても続けるのは大変です。逆に捉えれば、ブログが書くことができれば、日々の行動力維持に繋がると思います。ではグッナイワールド。